2013年5月5日日曜日

「アートマ・ボーダ(Atma Bodha、自らの知)」、シャンカラーチャーリヤ著

 最初の2つの文章は、http://nonduality.com/shankr10.htmからの日本語訳ですが、段落分けを変えています。もともとはSmt.Kanakamal氏の文章で、それをR.K.Shankar氏が英訳したもののようです。 
 以下の「アートマ・ボーダ」本文の英文は、『Collected Works of Sri Ramana Maharshi』からのもので、おそらくアーサー・オズボーン氏の英訳です。日本語訳にはSwami Chinmayanandaによる英訳(http://www.swamij.com/shankara-atma-bodha.htm)も参考にさせていただいています。(文:shiba)

アーディ・シャンカラーチャーリヤの生涯の手短な紹介

 アーディ・シャンカラーチャーリヤはジニャーニです。彼はたった7歳の時に僧となりました。彼のグルは聖者ゴーヴィンダでした。もちろん、そのグルは彼自身ジニャーニでした。シャンカラは16歳ごろに自らの実現を達成しました。

 グルはシャンカラにヴェーダの宗教を全インドに再確立するように命じました。彼は多くの学者と討論し、彼らを打ち負かし、彼の弟子としました。彼は初めてアドヴァイタ・ヴェーダーンタを確立しました。

 彼は『バガヴァッド・ギーター』、『ウパニシャッド』、『ブラフマ・スートラ』の注釈書を著しました。彼はまた、「アートマ・ボーダ」やその他のいくつかの作品ように彼独自のサンスクリット語の聖典を著しました。

シュリー・バガヴァーンが「アートマ・ボーダ」を偶然にサンスクリット語からタミル語へ翻訳するようになった次第の手短な物語

 サンスクリット語をほとんど知らないムスリムのタミル人の学者がいました。このムスリムはサンスクリット語の「アートマ・ボーダ」をタミル語に翻訳しました。ある日、これらのタミル語の翻訳が含まれた2冊の本が郵便で届きました。M.S.Rという名のある信奉者は、その日の郵便物と一緒に、これら2冊の本をシュリー・バガヴァーンに手渡しました。シュリー・バガヴァーンはいつものようにその日に届いたすべての郵便物を読みました。その後、彼はくり返しムスリムの学者のこれら2冊の本を熟読し始めました。その時、シュリー・バガヴァーンは何らかの内からの衝動に促されて、そのようにしているようでした。その後、シュリー・バガヴァーンはそれら2冊の本を手渡し、図書館に保管されました。

 その後、彼はV.Rという名の信奉者に「アートマ・ボーダ」のサンスクリット語の原文を持ってくるように頼みました。彼はくり返しサンスクリット語の原文を拾い読みし始めました。彼は自発的に「アートマ・ボーダ」のはじめの2詩節をタミル語の(タミル語の4行詩の一種、英語の14行詩のソネットのような)ヴェンパに翻訳し、それらを紙に書き留めました。

 信奉者のK.Sはこれを見ていて、シュリー・バガヴァーンに、「シュリー・バガヴァーンはくり返し何かの本を熟読しているようですが、それはどの本ですか」と尋ねました。シュリー・バガヴァーンは「アートマ・ボーダ」の最初の2詩節の「タミル語の4行詩訳」を見せました。それを見て、K.Sは、「同じように残りの(66)詩節も書かれるなら、良いですね」と言いました。バガヴァーンは、「結構、結構。一体これはどういうわけですか」と答えました。シュリー・バガヴァーンがそのように言ったのは、いつも彼は何をするにも決して率先して行うことがなかったからです。彼の本質は常に、肉体的にさえも、静かにいることでした。

 しかし、何かが内側から彼を促しているに違いありませんでした。二日後に、彼は「アートマ・ボーダ」の次のサンスクリット語の数詩節をタミル語の詩節に翻訳し、V.Rに見せました。彼はV.Rに「なぜ私が書かねばならないのかと思って静かにしているなら、これは私から離れようとしないみたいです。次から次へとこれらがやって来て、私(私の心)の前に立ちます。私はどうすればいいのですか」と言いました。もう数詩節を書いた後、彼はV.Rに「この先、これは私を離れようとしないでしょう!これらのタミル語の翻訳を書きとめるために私にノートを持ってきて下さい」と言いました。そのように言って、彼はV.Rに導入の詩節さえも見せました。

 非常にわずかな日数で、シュリー・バガヴァーンは「アートマ・ボーダ」のサンスクリット語の68詩節すべてを68のタミル語の4行詩に翻訳しました。それから彼はそこにいる人たちを見て、「40年前、マラヤーラム語(南インドの言語)の文章を含む小冊子がここに届きました。その冊子の中に、これらのサンスクリット語の「アートマ・ボーダ」の詩節がのっていました。その時は、(私の中に)それらをタミル語に翻訳しようという何の思いも生じませんでした」と言いました。ある信奉者が、「すべてのことにとって、(適切な)時期がくるはずではないのですか」と答えました。それに対して、シュリー・バガヴァーンは、「そうです、そうです!今、私が4行詩を一つ書くと、別の4行詩が(私の心の前に)現れます」と言いました。

 彼はさらに、「私はこの『アートマ・ボーダ』を以前に読んだようにも感じます。以前に、誰かこの『アートマ・ボーダ』をタミル語の4行詩で書きませんでしたか」と言いました。「今まで誰もこれらをタミル語の4行詩として書いていません」とシュリー・ムルガナールは言いました(シュリー・ムルガナールはタミル人の教師で、タミル語の偉大な詩人であり、もちろんシュリー・バガヴァーンの偉大な信奉者です)。そして、彼はさらに続けて、「これらの詩節が次から次へとシュリー・バガヴァーンの前に現れることに何の驚きがありますか。これは創造の周期の始まりに、ブラフマー(創造神)の心の前にヴェーダが現れるのとただ似通っているだけです」と言いました。ヒンドゥー教の信仰では創造は創造神、つまり、ブラフマーを通じて起こります。そして、ブラフマーはヴェーダどおりに世界を創造します。それらのヴェーダは、創造のそれぞれの周期のはじめに彼の前に自動的に現れ、彼にヴェーダの規定に従って世界を創造することを可能にします。それに対して、シュリー・バガヴァーンは笑いながら、「そのとおりです!しかし、自分だけがこれらのタミル語の4行詩を作ったと言い、私と戦いに誰も来なければいいのですが」と言いました。シュリー・バガヴァーンがそのように言ったのは、インドでは虚偽の理由でさえ、嫉妬心のため、もしくは、神聖な歌が最初に彼らによって作られたという名声を得ようとして人々が戦うことは一般的であるからです。

 シュリー・バガヴァーン自身の意思により書かれた本はほとんどありません。大部分の本は何らかの内側の促しにより書かれました。しかし、不運なことに、どのように内側から彼が促されたかはシュリー・バガヴァーンのわずかな本の中にしか記録されていません。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシの全集(Collected Works of Sri Ramana Maharshi)』


アートマ・ボーダ(自らの知)

シュリー・バガヴァーンによる祈りの詩節

自らの啓示者であるシャンカラが、自分自身の自らと異なりうるのか
彼以外の誰が、今日、私の中の最奥の自らとして住まい、タミル語でこれを話すのか

本文

1.
これ-アートマ・ボーダ-は、長きにわたるタパスにより、すでに自分自身から不純物をとり除き、心安らかで、欲望がなくなった解放の探求者の望みを満たすためのものである。

2.
料理に火が必須であるのと同様に、解放へのあらゆる手段の中で、唯一、知のみが直接的なものである。それなくして、解放を得ることはできない。

3.
無知に対抗していないため、カルマはそれを破壊しない。一方、光が闇を破壊するのと同じく確実に、知は無知を破壊する。

4.
無知ゆえに自らは覆われているかのように見える。無知を取り除くや否や、雲が去った後の太陽のごとく、純粋な自らがひとりでに輝きだす。

5.
ジーヴァは無知と混ざり合っている。絶え間ない知の修練により、ジーヴァは純粋になる。カタカの木の実の粉(*1)が水の中の汚れと共に消えるように、知は(無知ともに)消える。

しかし、ここに世界があります。どうして自らのみが現実であり、不二でありうるのですか。

6.
サンサーラは好悪(こうお)、その他の対立する二組に満ちている。夢のごとく、しばらくの間、それは現実のように見える。しかし、目覚めるや否や、非現実であるがゆえに、それは消え去る。

夢は目覚めるとすぐに打ち消されるので、私はそれが非現実であると知っています。しかし、世界は存続し、私はそれを現実であるとしか気づいていません。

7.
全ての根底(礎)である不二のブラフマンが見られない限り、世界は現実のように見える。真珠母貝の偽りの銀色のように(*2)

しかし、世界はとても多様です。それなのに、あなたはただ一者のみあると言います。

8.
大海の表面に生じている泡のごとく、全世界は全ての支えであり、根本の原因である至高なる存在(パラメーシャ)から生じ、その中に留まり、その中に溶け込む。

9.
存在‐意識‐至福、全てに行き渡る永遠のヴィシュヌの中に、それら多様な全てのものや個々人が、黄金から作られる様々な宝飾品のごとく(現象として)現れる。

分かりました。しかし、無数の個々人の魂についてはどうですか。

10.
遍く行き渡るアーカーシャ(虚空)が(穴や、瓶や、家や、劇場の中のように)様々なものの中でばらばらになっているように見えるが、その制限が抜け落ちるや否や分かたれないままにあるのとまさしく同様に、五感の唯一、不二の支配者も同様である(神々や、人間や、牛などとして活動するように見えている)。

しかし、個々人は異なる特性を持ち、異なる条件に従い行動します。

11.
特性なども付け加えられたものである。(それ自体は味のない)純粋な水は、それに加えられたもの(ウパーディ)にしたがい、甘くなったり、苦くなったり、塩辛くなったりする。同様に、人種、名前、地位などはみな、万物の不二の自らに付け加えられたものである。自らにそのようないたずらをするこれらのウパーディとは何か。それらは、ここに粗大なもの、微細なもの、非常に微細なものとして示される。

12.
五つの粗大な要素(地、水、火、風、虚空)から成り立つ粗大な体は、苦楽の形で過去の行為の結果を受けるためにある。

13.
五つの気、心、知性、十種の感覚器官から構成され、微細な要素から成り立つ微細な体もまた、(夢にいるように)楽しみのためにある(*3)

14.
表現しえない始まりなき無知は、(深い眠りにいるように)原因となる体と言われている。自らは、これら三つのウパーディと異なると知れ。

15.
(それ自体は色のない)透明な水晶が背景に従い、赤や青や黄色などのように見えるのとまさしく同様に、純粋で汚れなき自らもまた五つの鞘(*4)と一体のように見える。

16.
稲の殻を取ることで中にある米があらわになるのとまさしく同様に、人は思慮深く、純粋なアートマンをそれを覆っている鞘から分離すべきである。

アートマンはあらゆる所に存在すると言われています。それでは、なぜそれが五つの鞘の中に思慮深く探されるべきなのですか。

17.
あらゆる所に常に存在するが、自らはあらゆる場所には輝き出ない。光が透明な媒介の中でのみ反射するのとまさしく同様に、自らは知性の中にのみ明確に見られる。

18.
王がその臣下と関わるように、自らは知性の中に体、感覚、心、知性、粗大な性質(プラクリティ)の活動の目撃者として、しかし、それらから離れ、実現されている。

自らはそれらの活動に関与しているように見えます。ですから、彼はそれらと異なるものではないし、目撃者でもありえません。

19.
周囲にある雲が動く時、月が動くように見えるのとまさしく同様に、識別しない者には、実際には感覚が活動的な時、自らもまた活動的に見える。

活動するには、体などにも知性がなければありませんが、それらは不活発であると言われています。それらはその活動に関与する知性ある自らがなければ、どうして活動できますか。

20.
人間が太陽の光の中で務めを果たすのとまさしく同様に(しかし、太陽はそれに関与しない)、体や五感なども、自らの関与なく、自らの光の中で機能する。

確かに、自らのみが知性です。私は私自身が生まれ、成長し、衰え、幸福になり、不幸になったりなどすることを知っています。正しいでしょうか。

21.
そうではない。(誕生、死などの)体の特性や五感は、空にある青色のごとく、識別しない者たちによって存在‐意識‐至福に付け加えられたものである。

22.
水面に映る月の上の水の動きのごとく、行為の主体などのような心の特性もまた、無知によってアートマンに付け加えられたものである(*5)

23.
知性が現れる時にのみ、好悪、苦楽が感じられる。深い眠りにおいて、知性は潜在しており、それらは感じられない。それゆえに、それらは知性のもので、アートマン(自ら)のものでない。ここにアートマンの本質がある。

24.
光がまさに太陽であり、冷たさが水であり、熱が火であるように、永遠の純粋な存在‐意識‐至福がまさに自らである(*6)

いつかしら、全ての個々人は「私は幸せです」と感じており、それゆえに存在‐意識‐至福の経験は明白です。どうすれば、この経験を永続的で、不変のものにできるのでしょうか。

25.
存在‐意識は自らのものである。「私」という形態または変形体は、知性のものである。これらは明確に二つである。しかしながら、無知によって個人はそれらを混合し、「私が知る」と思い、それに従い行為をなす。

26.
アートマンの中にはいかなる変化(もしくは、行為)もなく、知性の中に知識もない。ジーヴァのみがそれ自身を知る者、行為者、見る者と誤って考えている。

27.
縄を蛇と見紛(まが)うように、ジーヴァを自らと間違え、人は恐怖に陥りやすい。それに対し、自分自身をジーヴァでなく、至高なる自らとして知るならば、人は完全に恐怖を持たない。

28.
壺のごとき対象を灯火が照らすように、自らのみが五感や知性などを照らす。それらは不活発なため、自らはそれらによって照らされない。

もし自らが知性によって知ることができないならば、自らを知るための知る者がおらず、自らを知ることはできません。

29.
光を見るために、その他の光を必要としない。そのようにまた、自らは自ら輝くゆえ、知るための他の方法を必要としない。それは独り輝く。

もしそうであるならば、全ての人が自らを実現しているはずですが、そうではありません。

30.
「これでない、これでない」というヴェーダの教えの力に基づき、一切の付加物(ウパーディ)を取り除き、マハーヴァーキャ(*7)の助けによりて、ジーヴァートマン(個別の自分)とパラマートマン(至高なる自ら)の一致を実現せよ。

31.
体のような外界すべては無知から生まれ、水面の泡のように移ろいやすい。自らはそれと異なり、ブラフマン(至高者)と同一であると知れ。

32.
粗大な体と異なるため、誕生、死、老年、衰弱などは私に属していない。五感でないため、私は音などの五感の対象と何の関わりも持たない。

33.
スルティは言明している。「私は生命の気(プラーナ)でなく、心でなく、純粋な(存在)である」。心でないため、私には好悪、恐怖などがない。

34.
「私は属性がなく、動きなく、永遠であり、分かたれず、汚されず、不変であり、無形であり、常に自由で純粋である。

35.
「虚空のごとく、私は常に全ての内に外に行き渡り、揺るぎなく、全ての中に常に等しくあり、純粋であり、汚されず、澄み渡り、不動である。

36.
「変わらずに永遠であり、純粋であり、常に自由であり、ただ独りのままあるそれ、不滅の至福、不二の存在‐意識‐至福、超越的なブラフマンが私である」。

37.
効き目ある治療薬(ラサーヤナ)が病を根絶するように、「私はブラフマンのみである」という絶え間ない長き修練は、無知から生まれる一切のヴァーサナー(潜在的傾向)を破壊する。

38.
冷静であり、五感を支配下に置き、心をさ迷わないようにせよ。人のいない場所に座り、自らを無限で、ただ独りのみとして瞑想せよ。

39.
心を純粋に保て。鋭い知性により、外界にある一切を自らに溶け込まし、自らを虚空ごとく澄みわたり、ただ一者のみとして常に瞑想せよ。

40.
一切の名と形を捨て去ったため、あなたは今や至高なる存在を知る者であり、完全な意識‐至福のままある。

41.
意識‐至福と同一であるため、知る者と知られるものというような分かれはもはやない。自らはそれ自身として輝き出ている。

42.
このように絶え間ない瞑想の過程により、二片の木切れ、すなわち、自らと自我はこすり合わされ、知の火からの炎は無知の一切を焼き払う。

43.
このように知が無知を破壊する時、夜明けの光が夜の暗闇を追い払うように、自らは太陽のごとく、そのまったき栄光で昇る。

44.
確かに、自らはいつも今ここにある。しかし、それは無知ゆえに明らかでない。無知が破壊されるや否や、(無くしたと思っていた)自分の首にある首飾りのごとく、自らはあたかも得られたかのように見える。

45.
暗闇の中で郵便箱が人と見紛われるのとまさしく同様に、無知の中でブラフマンもジーヴァと見紛われる。しかしながら、ジーヴァの本質が見られるなら、幻は消え去る。

46.
現実の体験に基づき生じる知は、「私」および「私のもの」なる無知な認識を即座に破壊する。その認識は、暗闇の中で方向を間違う思い違いに似ている。

47.
自らを完全に実現したヨーギであるジニャーニは、知恵の目によって外界の全現象が自らの中にあり、自らから出現し、従って、自らのみが唯一の存在であると見る。

それでは、どのように世界で振る舞えばいいですか。

48.
粘土がそこから様々な道具(壺、瓶などのような)が作られる唯一の素材であるのとまさしく同様に、彼は自らもまた全世界であり、自ら以外に何も存在しないと見る。

49.
生きているにもかかわらず解放されるためには、蜂へ変わる蛆(うじ)のごとく(*8)、聖者は付加物(ウパーディ)を完全に遠ざけ、存在‐意識‐至福なる本質を得なければならない。

50.
幻影の海を渡り、好悪なる悪魔を殺し、ヨーギは今やシャーンティ(安らぎ)とつながり、自らの中に喜びを見出し、そのまったき栄光のままにある。

51.
ジーヴァンムクタは移ろいゆく外的な一切の楽しみから解放され、彼自身の自らに喜び、壺の中の灯のごとく明瞭で、堅固なままある。

52.
その中に含まれている対象物によって汚されないアーカーシャ(虚空)のように、ムニ(聖者)は彼を覆っている付加物(ウパーディ)によって汚されない。全てを知る者であるが、相変わらず彼は知らない者のようであり、触れる対象物により汚されない空気のごとく動く。

53.
付加物(体、五感など)が消滅する時、水の中に水が、虚空の中に虚空が、火の中に火が溶け込むがごとき、今や特異性から解放された聖者は遍く行き渡る存在(ヴィシュヌ)に溶け込んでいる。

54.
この利得を超える利得はなく、この至福を超える至福はなく、この知を超える知はない-これをブラフマンと知れ。

55.
それを見るとき見るものが何も残らず、それになるときサンサーラへもはや戻らず、それを知るとき知るものが何も残らない-それをブラフマンであると知れ。

56.
上に、下に、周りに、万物を満たすもの、存在‐意識‐至福そのもの、不ニであり、無限であり、永遠であり、唯一なるもの-それをブラフマンであると知れ。

57.
不変不滅の至福として、唯一なるものとしてあるもの、聖典さえも「それでない、それでない」と除外する過程により間接的に示している、それ-他ならぬそれがブラフマンであると知れ。

58.
アートマンの尽きることなき至福のかけらに依存し、ブラフマーといった全ての神々はそれぞれの段階に従い、至福を楽しむ。

59.
牛乳の中のバターのごとく、全世界はその中に含まれている。全ての活動はそれのみに基づいている。それゆえ、ブラフマンは遍く行き渡っている。

60.
微細でも粗大でもなく、短くも長くもなく、作りだされず、消費されないもの、形、属性、カースト、名前を欠くもの-それがブラフマンであると知れ。

61.
その光によって太陽と他の輝くものが輝き出すが、それ自体はそれらによって照らされず、その光の中でこの全てが見られる-それがブラフマンであると知れ。

62.
赤熱した鉄の破片の中の火のごとく、ブラフマンは内に外に、終始、全世界に行き渡り、それを輝かせ、それ自体も独り輝く。

63.
ブラフマンは全世界と異なるが、ブラフマンから離れて何ものも存続しない。もしブラフマン以外のものが現れるとすれば、それは蜃気楼の水のように幻に過ぎない。

64.
見られるもの、もしくは聞かれるものは何であれ、ブラフマンと異なりえない。真の知はブラフマンを存在‐意識‐至福であり、唯一、不ニであると見出す。

65.
知恵の目のみが遍く存在する存在‐意識‐至福を見ることができ、無知の目は見ることができない。なぜなら、盲目は太陽を見ることができない。

66.
浮きかすを除いた黄金のごとく、ジーヴァ(サーダカ)は、シュラヴァナ、マナナ、ニディディヤーサナにより煽られ、突如として燃えだす知の炎により彼の一切の不純を焼き払い、今や彼は独り輝き出る。

67.
暗闇を追い払う者である知の太陽が昇ったため、アートマンが全てに遍在する維持者としてハートの広がりの中に輝き、全てを照らしている。

68.
あらゆる場所で今ここに得られる、澄み渡り、温かく、常に清涼なアートマンなる水に沐浴する彼を特別な中心地や時節の中に探す必要はない。そのような人は行為なきままある。彼は全てを知る者である。彼は全てに行き渡り、常に不死である。

(*1)英訳にはカタカという言葉は出てきませんが、他訳ではカタカという木の実の名前が出てきます。この実の粉を泥水の上にかけると、膜状になり、汚れを除きながら下に沈んでいきます。雨季に川の水が泥と混ざるときに泥を除くために使われるようです。
(*2)真珠をつくる真珠母貝の内面は美しい銀色の光沢をもちますが、本当の銀ではありません。
(*3)「五つの気(パンチャ・プラーナ)」は「プラーナ、アパーナ、ウダーナ、サマーナ、ヴャーナ」。「十種の感覚器官(ダシャ・インドリヤ)」は、「眼、耳、舌、鼻、皮膚の五つの感覚器官と舌、手、足、肛門、生殖器という活動の器官」。また、他訳では「楽しみのためにある」は「経験のための道具である」となっています。
(*4)五つの鞘・・・パンチャ・コーシャ。粗大な体は「アンナマヤ・コーシャ」、微細な体は「プラーナーマヤ・コーシャ、マノマヤ・コーシャ、ヴィジナーナマヤ・コーシャ」、原因となる体は「アーナンダマヤ・コーシャ」に対応しているようです。
(*5)他訳では、「水に属している揺らぎが、無知を通じて水面で踊っている月のものとされる」とあります。
(*6)他訳では「輝きが太陽の本質であり、、」というように「本質」という言葉が使われています。
(*7)マハーヴァーキャ・・・たいてい4つのヴェーダからとられた真理を表す言葉を意味する。バガヴァーンとの対話では、チャンドーラギャ・ウパニシャッドからの「tat tvam asmi(汝はなり)」とブリハダーランヤカ・ウパニシャッドからの「aham brahmasmi(私はブラフマンである)」がよく引用されてています。
(*8)ここではウジ(maggot)が使われ、他訳では虫(worm)が使われています。幼虫(larva)は使われていません。

1 件のコメント:

  1. わかりやすく翻訳、解説してくださり、ありがとうございます。

    返信削除