2015年12月25日金曜日

アドヴァイタの文脈で見るキリスト教 - 魂(プシューケー)から霊(プネウマ)へ

◇「山の道(Mountain Path)」、1988年7月 p181~183

アドヴァイタとキリスト(教)信仰

ビード・グリフィス神父

 シュリー・ラマナ・マハルシには様々な宗教の人々の中から弟子がいますが、その多くはキリスト教徒です。それゆえ、伝統的キリスト(教)信仰を抱く者が不二の教説とマハルシのものであった「私は誰か」という探求の方法をどれほど受け入れることができるのか調べることは興味深いことかもしれません。一見したところ、伝統的なキリスト教はアドヴァイタ哲学からかけ離れたものであるように思えるかもしれませんが、より深い学びによって二つの教説には深遠な類似性が存在することが明らかになるやもしれません。この格好の例は、アドヴァイタとキリスト(教)信仰の調和にその人生を捧げたフランス人修道士、ル・ソー神父、スワーミー・アビシクターナンダの教えと人生に見出されます。彼にとっての決定的瞬間が訪れたのは、1949年1月、彼がティルヴァンナーマライのアーシュラムを訪問した時でした。彼はそれについて(以下のように)記しました。「私の心がその事実を認識しうる、ましてやそれを表現しうる前にさえ、この賢者の目には見えない光輪(栄光)は私に中の言葉より深い何かによって感じられていました。アルナーチャラの賢者の中に、私は永遠なるインドの比類なき賢者、その(インドの)賢者たち、その苦行者たち、その予言者たちの途切れない継承を認めました。それはあたかもインドの魂そのものが私自身の魂のまさにその深みを貫き、それと神秘的な交わりを持ったかのようでした。それは万物を貫通し、バラバラに切り裂き、巨大な深淵を開きました」。

 このフランス人修道士の人生を変え、その心に絶え間ない苦闘を引き起こしたのは、この体験でした。この圧倒的な不二の体験を彼のキリスト(教)信仰と調和させようとしながら、彼は日記にその苦闘を書き留めました。その体験は彼にとってさらに深まったのは、彼がティルコイルールのスワーミー・グナナーナンダのアーシュラムで6か月過ごした時、スワーミー・グナナーナンダの内に彼に真正なアドヴァイタの体験を伝えた真のグルを認めるようになった時でした。生涯、彼はこの比類ない体験の絶対的真理を疑い得ませんでしたが、それを伝統的キリスト(教)信仰と調和させることは絶え間ない苦闘でした。彼の本は、『Sacchidananda』の題名で英語に翻訳され、彼はそれをアドヴァイタ的体験へのキリスト(教)的アプローチと呼び、二つの教説を調和させる彼の最初の真剣な試みでしたが、後にこれを超えて行きさえしました。彼が最も深い理解の水準に達したのは、サンニャーサとウパニシャッドに関する随筆からなる『The Further Shore』という彼が記した最後の本の中でした。サンニャーサに関する随筆は元々、リシケーシュのシヴァーナンダ・アーシュラムの雑誌『Divine Life』に掲載され、多くのヒンドゥー教徒に非常に高く評価されています。この本自体が、アドヴァイタとキリスト(教)信仰を調和させることに彼がどれほど成功したのかについての良い試金石です。

 アンリ・ル・ソー、”スワーミージ”、内なる旅、10分ごろから場面はアルナーチャラへ

 我々がアドヴァイタ的体験とのキリスト教の関係を理解したいと思うなら、聖パウロに見出される体(ソーマ)と魂(プシューケー)と霊(プネウマ)の間の区別から始めるのが最良です。不幸にも、後代に、アリストテレスに基づいた体‐魂としての人間の概念が受け入れられるようになり、これは人と神の間に隔たりを残しました。神は人類の「外側」、人類より「上」(にいる)と思われ、神の内在性の感覚は失われがちになりました。しかし、初期の伝統では、聖霊とは、人と神の間の出会いの場であると理解されています。人の霊が神の聖霊に出会うのは、その地点です。聖パウロは「アンソロポス・プシューケーコス」、魂の人と「アンソロポス・プネウマティコス」、霊の人の区別をし、彼の理解するところの人生のまさにその目的とは、魂から霊へ、人から神へと進むことです。この理解において、人間とは、まずはじめに物質的有機体、体であり、世界の物質的有機体の一部です。現代物理学の見解では、全世界は「力の場」、「相互依存的関係性の複雑な網」であり、絶え間ない動的変化の状態にあります。それは「依存的生起(縁起)」という仏教的見解とシヴァの踊りというヒンドゥー教の神話に非常に近しいものです。そして、これは人間の物質的基礎、粗大な体または「アンナ・コーシャ」、「ムーラ・プラクリティ」です。

 キリスト教の伝統の魂、または、プシューケーは、ヒンドゥー教の伝統の微細な体に対応します。それは五感、欲求、感情だけでなく、想像力、理性、意思もまた含みます。カタ・ウパニシャッドの用語において、それは五感(インドリヤ)と心(マナス)と知性(ブッディ)、そして、アハンカーラ、「私の作り手」も含みます。プシューケーは自我、経験上の自ら、ジヴァートマンを中心とし、それがその本質的限界であると認識することが重要です。それゆえに、プシューケー、個々の分離した自らを超越しうること、そして、聖霊、アートマンに自分自身を開きうることに全てはかかっています。キリスト教の伝統のプネウマは、ヒンドゥー教の理解におけるアートマンに極めて密接に対応しています。それは人間性の超越の地点、創造されざるものへの創造物の開放、最終的解放への通路です。

 この観点から考えると、キリスト教の伝統において考えられるところの人間の堕落とは、プネウマからプシューケーへの、聖霊から魂への、無限かつ永遠なるものから有限で一時的なものへの転落に存します。同じ原則に基づいて、救済とは、聖霊の命への魂の返還、人が神との交わりを再び取り戻すことに存します。托身(受肉)によって、神は再び人に入り、神は人になり、聖霊の内の命へと魂は戻されます。これは(キリストの)復活を通して達成されています。復活において、イエスの体と魂は聖霊の命へと連れ行かれると理解されています。粗大な体は十字架の上で死に、墓に埋葬されました。次に、それは微細な体に変じ、彼は弟子たちにその微細な体で現れ、時間と空間の通常の様態を超えて現れ、消えました。最終的に、昇天において、体と魂は時間と空間を超え行き、無限で永遠なるものへと終に入り、その結果、人は神と一つになりました。

 キリスト教の啓示がこれらの用語において考えられるなら、それがどのようにアドヴァイタ的体験と関連しうるのか理解することは困難ではありません。魂、もしくは、心の体は、自我、アハンカーラを中心とし、本質的に二元的です。それは全てのことを主体と対象、心と物質、時間と空間という観点から考えます。しかし、我々が心の状態を超え、自我を超え行く時、我々は一切の二元性から自由の身となります。聖霊の中では、この一切の人間性は乗り越えられています。ヒンドゥー教の伝統におけるシャンカラであれ、仏教におけるナーガールジュナ、イスラム教におけるイブン・アル・アラビー、キリスト教におけるマイスター・エックハルトであれ、その最終的な境地において、二元性が存在しないことは全ての伝統の神秘主義者の体験です。全創造物がその初めから向かっているのは、この超越的な境地であり、人類の運命とは現在の分割された意識の状態から不二、無限、永遠である最終的な意識の境地へと進むことです。しかし、その不二の現実において、全ての神秘主義者が証言するように、この世界の全ての現実性が見出されます。我々は世界を時間と空間で分割され、瞬間ごとに変化していると見ますが、それは我々の現在の分割された意識の様態の限界でしかありません。我々が心の様態を超え行く時、我々は現実そのものを「totasimul」、完全かつ同時に見ます。シャンカラがタイッティーリヤ・ウパニシャッドの注釈の中で述べたように、「ブラフマンを知る者は、永遠であり、ブラフマンの本質から異なるものでなく、我々が真理、知、無限-サティヤム、ジニャーナム、アナンタムとして描いた、一回の認識を通して、一瞬に蓄積されたものとして、全ての好ましい物事を同時に楽しむ」のです。

 この世界が非現実であるということではありません。それどころか、「この全世界はブラフマンである」とウパニシャッドは確言します。しかし、我々がそれを認識する方法には欠陥があります。我々が「魂」から聖霊へ、心から心を超えたものへと進む時、その時、我々はこの世界をあるがままに見るでしょう。無限である真理と知-サティヤム、ジニャーナム、アナンタム-の完全性の中に、我々は全ての人と全てのものをあるがままに見るでしょう。これが救済のキリスト(教)的理解です。それは聖霊の無限の命への体と魂の移行です。イエス自身がその境地について、「私は父(なる神)の内におり、父(なる神)は私の内にいる」と言うことができ、弟子たちのために、「父(なる神)である、あなたが私の内におり、私があなたの内にいるように、彼らが一つになりますように。彼らが我々の内で一つになりますように」と祈ることができました。これがキリスト(教)的アドヴァイタ、完全な一体性の境地であり、その中に区別はいまだ見出されません。それは純粋な同一性の状態ではありません。イエスは、「私は父(なる神)である」でなく、「私は父(なる神)の内におり、父(なる神)は私の内にいる」と言っています。彼は、「私を見る者は、父(なる神)を見る」、そして、「私と父(なる神)は一つである」と言うことができます。けれども、彼は、「私は父(なる神)である」とは言えません。純粋なアドヴァイタがありますが、それでも、その不二性の中に区別は残ります。

 この区別は何でしょうか。三位一体というキリスト(教)の教説は、それを「関係」として描きます。存在(being)の完全な一体性はありますが、それでも、その存在の中に関係があります。現代物理学が世界を「相互依存的関係性の複雑な網」として描いていることが思い出されるでしょう。世界は相互に依存した統一体ですが、それは無数のエネルギーの振動から成り立ち、その関係性によって区別されているだけです。良く知られているように、物理学者はもはや原子の中の「粒子」について話さず、異なる周波数の波について話します。そのようにまた、我々が想像するように、人間は孤立した個人ではなく、時間にして創造の始まりまで及んでいる広大無辺な統一体の一部です。各人が、サーンキヤ哲学でマハットとして知られる広大無辺な意識という漠々たる領域の中の意識の中心です。そして、この意識とエネルギーからなる全世界は、至高のエネルギー(シャクティ)と至高の意識(シヴァ)の中に連れ行かれます。我々が見てきたように、世界はシヴァの踊りに比することができ、ギリシャ正教会において三位一体がペリコーレーシス-踊りとして知られているのは、非常に興味深いことです。世界の中心には、この永遠の踊り、純粋な意識の至福の中での位格(父と子と聖霊)の交わりが存在します。それでも、この存在(being)の中の多様性すべては、至高なる神性の不二の存在、不二の意識の中に含まれています。

 キリスト(教)的アドヴァイタに関する考察は、何かそのような世界と人の概念へと我々を導きます。しかし、全てが述べられた時、言葉は言いようのない、かの現実を表現しえないということを認めなければなりません。教会博士、聖トマス・アクィナスは、神その人、絶対的現実は人知にとって「omnino ignotus」-全くもって未知-のままであると言明しました。最終的に、彼は「ネーティ、ネーティ」であるとウパニシャッドをもって我々は言わなければなりません。究極的な真理が知られるようになるのは、沈黙の中であり、ヒンドゥー教徒であれ、カトリック教徒であれ、我々全員が、全てが知られている、その沈黙、その静寂、その究極的な神秘の中へと導かれつついます。「それが知られる時、全ては知られる」。

ビード・グリフィス神父

はっきり聞き取れるところだけ下に訳してます
ヴェーダーンタ、ヨーガ、仏教の教えやスーフィーの教えを通して、キリスト(教)信仰の深い次元を発見することは全く可能であると私は考えています。
我々は神のことを考えなければなりません。我々は何らかのイメージを必要とします。我々は何らかの概念を必要とします。我々は聖書や何らかの聖典を必要とします。それらは神についての理解を我々に与えるためのものです。それは我々の導き手ですが、我々はそこで止まるべきではありません。我々が作り上げた全てのイメージ、概念、考えは、イメージや概念を超える「超えてある神秘」へと我々を導かなければなりません。

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