2014年5月13日火曜日

理論から痛みを伴う実践へ - 全ての人はその本質において神聖である

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年7月 p176~177

浄化の痛み
  
フィリップ・ペグラー

 不二という究極的なヴェーダの立場からは、このテーマについての議論はありえません。中心(*1)において、真理は存在する全てであるとして実現されています。浄化とそれに伴う痛みの問題は、我々がこの在るという中心から離れ、二元性の幻の中をさ迷う時にだけ生じます。我々は自らからの誤った分離の感覚から清められねばなりません。それが我々の前にある唯一の務めです。

 それは単純に聞こえますが、このテーマの単なる知的な把握だけでは明らかに十分でなく、人を誤らせることになり得ます。シュリー・バガヴァーンが疑問を晴らすために、根本へ戻るように質問者の受容性に応じて導く前に、いつも恵み深く質問者の理解の水準に下りてきていたことが思い起こされるべきです。与えられる助言は、実践されるべき真理の極めて重要な表現でした。単なる机上の学問-言葉だけを見て、その真意を見ない-は眉をひそめられます。師は全ての見解を相対的に妥当であると認めており、我々もまたそうすべきです。

 しかし、経験的知識がない時さえも、知的な明快さは物事を正しい視点-少なくとも、問題が明確に理解されうる-から捉える助けになります。

 それで、現実において、我々のそれぞれは生命の完全な表現です。生命には確かに浄化の必要はありませんが、無知な個人性を構成する多数の人間の層が、いわば我々の神聖な本質の上に横たわっています。これが清め落とされるべき不純物です。自らと離れて見られる時、個人は架空の存在ですが、自らとしてその本質を表す限りにおいて、それは現実であると我々は教えられています。問題は、我々が頑に「自らならざるもの」の層と同一化し、内で輝く中心の光を忘れていることです。バガヴァーンは、真理は新たに得られる必要はなく、自らが知られるためには、ただ体(すなわち、我々の思いと感覚)との同一化という誤った感覚を放棄すべきであると繰り返し指摘しています。簡単に言われますが、実際、我々が長いあいだ心から可愛がっていた個人性の印象への愛着を断ち切るのは非常に骨の折れる仕事です。

 それ自身の苦闘と痛みを犠牲にして、死ななければならないのは、利己性です。しかし、それは永遠の自由と引き換えに支払われるべき途方もない代価です。簡単な道はありません。最も必要とされることは、受け取るよりもむしろ与えることを求める-人生から自己中心的な満足を一滴も漏らさず絞り出すのでなく、人生に喜びをもたらす-という新たな基本的な態度の方向付けです。我々は他者を犠牲にして、我々自身の利益の面からすべてのものに取り組みます。それが我々の根本的な不快感なのです!しかし、別の道があります。アッシジの聖フランシスの有名な祈りを思い出してください。
アッシジの聖フランシス:

 主よ、私をおん身の平和の道具にしてください
 憎しみのあるところに、私に愛の種を蒔かせてください
 侮辱のあるところに、許しを
 疑いのあるところに、信頼を
 絶望のあるところに、希望を
 悲しみのあるところに、喜びを
 暗闇のあるところに、光を


 そのようにして、我々は真理が流れるの許すために我々の心を開きます。そうして、我々は浄化の理論から実践に-理想主義から現実主義に-移ります。着実な修練のみが、思索を生き生きとした真実へ移すことができます。重要なのは実際の内なる変容であり、それについての中身のない話ではありません。そして、その最も重要な点については、シュリー・バガヴァーン自身が妥協を許しませんでした。彼はサーダナの問題を苦闘する信奉者達の視点から思いやり深く見ました。『ラマナ・マハルシとの対話』からの以下の対話は、それをよく例示しています。
1.(*2)  
信奉者: 我々が瞑想を試みる時、他の思いがより力強く生じます! 
バガヴァーン: ええ。あらゆる類の思いが瞑想において生じます。それはまったく結構なことです。あなたの中に潜在しているものが持ち出されています。思いが上がって来ないなら、どうして破壊できますか。それゆえ、思いはやがては消滅するために自然と上がって来て、そうして心を強くします。 
2.(*3) 
信奉者: どうすれば反抗的な心を制御できますか。 
バガヴァーン: 心が消えるように、その源を探すか、もしくは、心が打ち倒されるように、委ねなさい。 
信奉者: しかし、心は我々の制御から抜け落ちます。 
バガヴァーン: それでもかまいません。そのことについて考えないように。心が落ち着く時、心をつれ戻し、内に向けなさい。それで十分です。誰も努力なくして成功しません。心の制御は、その人の生得権ではありません。成功したわずかな人たちは、彼らの忍耐おかげで成功しています。
  おそらく、このテーマのもっとも簡潔で、鮮やかな要約は、ポール・ブラントンが師と交わした会話の中に見出されるでしょう。対話は、ブラントンが密林の中の隠者の住処への忘れがたい訪問について語る『秘められたインドにおける探求』に記録されています。
 「しかし、マハルシ、この道は困難に満ちており、私は自分自身の弱さをよく承知しています」と私は弁解しました。 
 「それが自分自身を不利な立場に置くための最も確実な道です」と彼は動じないで答えました。「この心を失敗への恐れや自分の欠点への思いによって悩ませることは」。 
 「しかし、もし、それが真実であったら?」と私は食い下がりました。 
 「真実ではありません。人の最大の過ちは彼が本来的に弱く、本来的に邪悪であると思うことです。全ての人がその本質において神聖であり、強靭です。弱く、邪悪であるものは、彼の習癖、彼の欲望や思いです。ですが、彼自身ではありません。」
  彼の言葉は、気持ちを引き立たせる強壮剤となりました。それは私を元気づけ、鼓舞しました。別の人の口からであるなら、より劣った弱々しい人物からであるならば、私はそれをそのような価値でもって受け入れるのを拒否し、論駁し続けたでしょう。しかし、内なる忠告者が、聖者が偉大な真正な聖なる体験の深みから語っていると私に請け負いました...(*4)

(*1)中心・・・「the Center」の訳。真ん中。
(*2)talks.310、p280,281
(*3)talks.398、p384

(*4)『A Search in Secret India』、第16章「密林の隠者の住処で」、p280,281

1 件のコメント:

  1. ありがとうございます。
    身に染みるバガヴァーンの御言葉思い出す事を忘れずにいます。

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