2012年7月20日金曜日

マーヤーの本質、マーヤーへの六つの問い、マーヤーと現実(自ら)の関係

◇「ウパデーシャ・マンジャリー(タミル:Upadesa Manjari、英:Spiritual Instruction)」 

第2章 修練(アバヤーサ)

質問5:
 マーヤーの本質とは何ですか。

バガヴァーン:
 マーヤーは、あらゆる所に常に存在し、全てに行き渡り、自ら輝いている自ら、現実を我々に存在していないとみなさせ、あらゆる時、あらゆる所で存在していないと決定的に証明されている個々の生命(ジーヴァ)、世界(ジャガット)、神(パラ)を我々に存在しているとみなさせます。

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』 (p99、p238~239))

1946年1月7日 

マハータニ氏:
 『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』で、心と同一化した至高の自らは変化に富むように見えると言われています。自らから出るマーヤーから出ている心が、どうして不変の自らを変化させられるのですか。

バガヴァーン:
 実際には、変化はなく、創造はありません。しかし、「この創造はどのように生じたのか」と尋ねる人のために、上述の説明が与えられています。

1946年5月29日 

ボーズ:
 ウパニシャッドが全てはブラフマンであると言う時、どうしてシャンカラのように、この世界がミティヤ、すなわち、幻であると我々が言えるのですか。

バガヴァーン:
 シャンカラもまた、世界がブラフマン、すなわち、自らであると言います。彼が異議を唱えるのは、自らが世界を構成する名と形によって制限されていると想像することです。彼は世界がブラフマンと別に存在していないと述べているだけです。ブラフマン、すなわち、自らはスクリーンのようであり、世界はその上にある映像のようです。あなたはスクリーンがある限りにのみ、映像を見ることができます。しかし、見る者自身がスクリーンになる時、自らのみが残ります。『カイヴァルヤ・ナヴァニータ(*1)』には、マーヤーに関す六つの質問と答えが書かれています。それらは有益です。

1番目の質問:
 マーヤーとは何ですか。

答え:
 アニルヴァチャニーヤ、言い表すことができません。

2番目の質問:
 それは誰に起こりましたか。

答え:
 自分が分離した存在であると感じ、「私がこれをなす」や「これは私のものである」と考える心、もしくは、自我に。

3番目の質問:
 どこから来ましたか、どのように始まりましたか。

答え:
 誰も答えられません。

4番目の質問:
 どのように生じましたか。

答え:
 ヴィチャーラの欠如(*2)を通して。「私は誰か」と尋ねることの怠りを通して。

5番目の質問:
 自らとマーヤーが共に存在するなら、これはアドヴァイタ(*3)の理論を無効にするのではありませんか。

答え:
 必ずしもそうではありません。というのも、スクリーン上に映像があるように、マーヤーは自らに依存しています。映像は、スクリーンが現実であるという意味において、現実ではありません。

6番目の質問:
 自らとマーヤーが一つであるなら、自らが幻というマーヤーの性質を持つと論じられるのではありませんか。

答え:
 いいえ。自らは幻になることなく、幻を作り出すことができます。魔術師(奇術師)は我々を楽しませるために、人々や動物や物体の幻をつくるかもしれません。そして、我々は我々が彼を見るのと同じようにはっきりとその全てを見ます。しかし、そのパフォーマンスの後、彼だけが残り、彼が作り出した一切の映像は消えます。彼は幻の一部ではなく、現実であり、確かなものです。

(*1)カイヴァルヤ・ナヴァニータ・・・16世紀にタミル語で書かれたアドヴァイタの古典。ターンタヴァラーヤ・スヴァーミの著作。タミル語:Kaivalya Navaneeta、英語:The Cream of Emancipation。
(*2)ヴィチャーラの欠如・・・「non-vichara」の訳。ヴィチャーラは「探求」を意味する。
(*3)アドヴァイタ・・・不ニ、「ブラフマン(=アートマン、自ら)のみが存在する」という教え。

◇『グル・ラマナ(GURU RAMANA-memories and notes)』、p58~59 抜粋

第2部-対話  9章 マーヤー

<1> 1937年4月15日

 C氏はこの巨大な世界の幻の謎を知りたいと思いました。

C氏:
 我々は世界を幻として話しますが、その中の全てのものは厳密な法則に従っており、それは世界が十分に計画され、十分に統制されていることを証明しています。

バガヴァーン:
 そうです。幻を投影した彼が、秩序としっかりした計画という外観を世界に与えました。

C氏:
 アドヴァイタ的なもの以外の一切の宗教的組織は、それらが神と名付ける現実の創造的側面を重要視しています。それらは預言者、聖者、聖典などについて話します。それらは全て、幻ですか。

バガヴァーン:
 その全ては、質問者であるあなたと同じように存在しています。あなたは相対的な世界におり、それらもまたそのようです。そうでなければ、あなたはそれらについて知らなかったでしょう。夢の中でもまた、人は聖者や聖典などを伴う十分に統制された世界を見ますが、目覚めるとすぐにそれらは全て消え去ります。そのようにまた、この夢の世界から至高の意識に目覚めることにより、その全ては消え去ります。

C氏:
 しかし、どのようにして真理から幻、虚偽が生じるのですか。

バガヴァーン:
 マーヤーは虚偽ではありません。それは虚偽の外観を持ちますが、現実の活動的側面なのです。それは意識の中の形の作り手であり、形は多様性を意味し、それは幻を引き起こします。とは言え、この全ての多様性は意識の中にあり、その他のどこにもありません。それは心の中にのみあります。あるジーヴァ(A)が他のジーヴァ(B)を見て、それ(B)との同一性を忘れ、それ(B)をそれ自身(A)から異なっていると思います。しかし、それ(A)がその注意を形としてでなく、その意識としての本質に向けるとすぐに、多様性、もしくは分離性という幻は、夢が目覚めが起こる時に消えるように消えます。

C氏:
 形を生じる神、無形のものは想像し難いです。

バガヴァーン:
 どうして難しいのですか。例えば深い眠りや、サマーディや、気絶した状態において、あなたが知覚したり、考えたりしない時、あなたの心は無形のままにありませんか。そして、心が考え、あなたの体を働くよう駆り立てる時、心は空間や関係性を創造しませんか。一つの同質的で、自動的な行為において-非常に自動的であるのでほとんどの人々はその過程に気づかないのですが-、あなたの心が考え出し、あなたの体が実行するのとまさしく同様に、神の知性も考え出し、計画し、彼の力は自動的で、自発的に働き、その思いと行為は一つの完全に統合されたものです。純粋な知性の中に暗に示されている、この創造的な力は、様々な名前で呼ばれています。その中の一つがマーヤー、もしくはシャクティであり、形や映像の創造者です。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 20. 1935年1月30日 (抜粋)

信奉者:
 マハルシは普遍的な幻(マーヤー)の理論をどう思いますか。

マハルシ:
 マーヤーとは何ですか。それは現実に過ぎません。

信奉者:
 マーヤーは幻ではないのですか。

マハルシ:
 マーヤーは現実の顕現を表すために使われています。そのように、マーヤーは現実に過ぎません。

Talk 477. (抜粋)

信奉者:
 心もまたマーヤーであると私は思います。

マハルシ:
 マーヤーとは何ですか。心が現実から分離されているという知(識)が、マーヤーです。心は現実の中だけにあり、離れていません。この知(識)がマーヤーの除去です。

◇『彼の机から落ちる(パンの)かけら(Crumbs From His Table)』 p40 抜粋

11)夢、眠り、サマーディ 

信奉者:
 世界の存在は虚偽、幻、マーヤーであると言明されていますが、我々は来る日も来る日も世界を見ます。どうしてそれが虚偽となりうるのですか。

マハルシ:
 虚偽ということで、暗闇(無知)の中で縄という現実の上に蛇という考えが付加されるように、世界という概念が現実に付加されたものであるということを意味しています。

信奉者:
 マーヤーとは何ですか。幻ですか。

バガヴァーン:
 氷が水であるのを知らずに、氷を見ることが幻、マーヤーです。それゆえ、心を殺すや、何かそのようなことを言うのもまた意味はありません。なぜなら、結局のところ、心もまた自らの重要な部分であるからです。自らに安らうこと、または、自らの内にあることがムクティ、マーヤーを取り除くことです。マーヤーは分離した存在ではありません。光の欠如が暗闇と呼ばれるように、知、輝きなどの欠如が無知、幻、マーヤーと呼ばれています。

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