2011年12月17日土曜日

シュリー・シャンカラーチャーリヤの教えの批判への反論、世界の現実性

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 p289、290

Talk 315. 

付き添いの一人:
 シュリー・バガヴァーンは、「現実と架空のものは、共に同じものである」と言いました。 どうしてそうなのですか。

バガヴァーン:
 タントラ教徒やそのたぐいの他の人々は、正しい理解をせずに、シュリー・ シャンカラの哲学をマーヤー・ヴァーダ(*1) として非難します。彼は何と言いますか。彼は(以下のように)言います。

①ブラフマンは現実である(*2)
②全世界は架空のものである(*3)
③ブラフマンは全世界である

  彼は二番目の発言でやめず、それに三番目をさらに付け加えます。それは何を意味するでしょうか。全世界はブラフマンから離れていると思われており、その認識は誤りです。

 論敵は、彼のラッジュ・サルパ(縄と蛇)(*4)の例を指摘します。これは無条件の付加です。縄という真実が知られる後、蛇という幻はきれいさっぱり取り除かれます。しかし、彼らは条件つきの付加も考えに入れるべきです。つまり、マルマリーチカーもしくはムリガトリシュナ(蜃気楼の水)(*5)です。蜃気楼はそれを蜃気楼であると知る後さえも消えません。その景色はそこにありますが、水を求めて駆け寄ることはありません。

 シュリー・シャンカラは、両方の例示の見かたで理解されなければなりません。世界は架空のものです。それを知る後にさえも、世界は現れつづけます。世界はブラフマンであり、(それから)離れていないと知られなければなりません。

 「世界が現れるならば、しかし、誰に現れますか」と彼は尋ねます。あなたの答えは何ですか。あなたは自らと言わなければなりません。でなければ、世界は認識する自らがなくても現れるのでしょうか。それゆえに自らが現実です。これが彼の結論です。現象は自らとして現実であり、自らから離れては架空のものです。

 さて、タントラ教徒などは何を言いますか。彼らは、「現象はそれが現れる現実の一部であるから現実である」と言います。この二つの意見は同じではありませんか。これが「現実と虚偽が全く同じある」ということによって私が言わんとすることです。

 論敵は続けます。「無条件の幻と同様に条件つきの幻を考えに入れるなら、蜃気楼の水という現象は純粋に幻である。というのも、その水はどのような目的にも使えない。一方、世界という現象は異なる。というのも、世界には目的がある。それでは、どうして後者(世界)が前者(蜃気楼の水)と同等になるのか。」

 現象は、一つの目的、もしくは、複数の目的に叶うからというだけで、現実なるものになりえません。夢を例にとりましょう。夢の創造物には目的があります。それらは夢の中の目的に叶います。夢の中の水は夢の中の渇きをうるおします。しかしながら、夢の創造は目覚めの状態において否定されます。目覚めの創造は、他の二つの状態において否定されます。連続していないものは現実になりえません。現実であるなら、それは常に現実であるはずです。短い間だけ現実であり、その他の時間は現実でない、ということではなく。

 魔法の力による創造物も同じです。それらは現実のように見えますが、しかし、幻です。同じく全世界はそれ自身で、つまり、根底にある現実から離れて現実となりえません。

(*1)マーヤー・ヴァーダ・・・「幻についての教え」
(*2)ブラフマン・・・「至高の存在、絶対的現実」。「成長する、増大する」を意味する動詞のbrhから由来しており、「広大・無量」を含意する。万物の非人格的な、遍く行き渡る、無限の原因であり、支え。無形で無属性。万物のそれ自体はその原因をもたない原因。その本質は、サット(絶対的存在)、チット(意識)、アーナンダ(至福)である。
(*3) 全世界・・・英語のthe universeの訳。「存在するもの全て、万物、森羅万象、全世界」
(*4)ラッジュ・サルパ・・・ラッジュは「縄」で、サルパは「蛇」。暗闇の中で縄を蛇だと勘違いしてしまうという例。
(*5)マルマリーチカー/ムリガトリシュナ・・・「蜃気楼」

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 p190~191 前略

1946年4月7日 夜 

 この論点から、話は様々な思想学派へと移りました。ある学派はただ一つの現実のみあると言い、他の学派はジャガット、ジーヴァ、イーシュワラ(*1)もしくは、パティ、パシュ、パーシャム(*2)というような三つの永遠の実体があると言います。これに関連して、バガヴァーンがユーモアたっぷりに以下のことを述べました。

 「アドヴァティンやシャンカラの学派が世界の存在を否定したり、彼らがそれを非現実とみなすと言うことはまったく正しくありません。それどころか、彼らにとってそれは他の人々よりも現実的なのです。彼らの世界は常に存在しますが、他の学派の世界は起源・成長・衰退を持ち、それゆえに現実になりえません。ただ、彼らが言うことは、世界は世界として現実でないが、世界はブラフマンとして現実であるということです。全てはブラフマンであり、ブラフマン以外何も存在せず、世界はブラフマンとして現実です。このようにして、彼らは他の学派以上に世界に現実性を与えていると主張します。

 例えば、三つの実体を信じている学派によると、ジャガットは現実性の三分の一でしかありませんが、アドヴァイタによると、世界はブラフマンとして現実であり、世界と現実は異なるものでありません。同様に、神やブラフマンにさえ、他の学派は三分の一の統治権しか与えていません。他の二つの実体が必然的に神の現実性を制限しています。ですから、シャンカラがマーヤー・ヴァーディ(*3)と呼ばれる時、『シャンカラはマーヤーが存在しないと言います。マーヤーの実在を否定し、それをミティヤや、非実在と呼ぶ彼をマーヤー・ヴァーディと呼ぶことはできません。その実在を認め、その産物である世界を現実と呼ぶ者たちがマーヤー・ヴァーディと呼ばれて然るべきです。イーシュワラを否定する者たちはイーシュワラ・ヴァーディ(*4)と呼べません。イーシュワラの存在を肯定する者のみがイーシュワラ・ヴァーディなのです・・・』と言い返せるかもしれません。」

 バガヴァーンはつづけて、「もちろん、この全ては無益な論争です。そのような論争に終わりはありません。なすべき適切なことは、『私』を見つけ出すことです。その存在について誰も疑いを持たず、眠っている間のように、他の一切のものが消えた時にそれのみが存続します。その後で、そのような疑問や論争の余地があるのか確かめなさい」と言い足しました。

(*1)ジャガット、ジーヴァ、イーシュワラ・・・「世界、個々の生命、神」
(*2)パティ、パシュ、パーシャム・・・シャイヴァ・シッダーンタ哲学の3つの主要素。文字通りの意味は「主人、牝牛、鎖」。「神、個々の生命、束縛」を意味する。
(*3)マーヤー・ヴァーディ・・・「マーヤー(幻)について論じる者、提唱者」
(*4)イーシュワラ・ヴァーディ・・・「イーシュワラについて論じる者、提唱者」

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』 p117、118

1946年8月24日
(69)ブラフマンは現実である-世界は幻である

 いくらか前に、アーシュラムへの新来者がバガヴァーンに英語で何か尋ねました。私はその言葉を知らないので、分かりませんでした。しかし、バガヴァーンはタミル語で答えました。私が把握できる限りの彼の返答を以下に記します。

バガヴァーン:
 ブラフマンが現実であり、世界は幻であると言われています。また、全世界はブラフマンのイメージ(心象、映像)であると言われています。これら二つの言明がどのように調和させられるのか、という質問が起こります。サーダカの段階において、あなたは世界は幻であると言わざるをえません。他の道はありません。なぜなら、人が自分が現実であり、永遠であり、遍く存在するブラフマンであることを忘れ、自分自身を移ろいゆく(多くの)体でいっぱいの世界の中の一つの体であると誤って思いこみ、その幻の下で苦しんでいる時、あなたは彼に世界は非現実であり、幻であると思いださせなければなりません。なぜでしょうか。なぜなら、この外側の物質的な世界すべてが非現実であると印象付けなければ、自分自身の自らを忘れた人の認識は、外側の物質的な世界に住まい、内観へと内に向かないからです。

 いったん人が自分自身の自らを実現し、そしてまた自分自身の自ら以外何も存在しないこと悟る時、彼は全世界をブラフマンとして見るようになります。自ら無くして、世界はありません。人が全ての起源である自分自身の自らを見ず、外側の世界だけを現実であり、永遠であると見る限り、あなたは彼に「この外側の世界すべては幻である」と言わなければなりません。そうせざるをえません。

 紙を例にとりましょう。我々は文字だけを見て、誰も文字が書かれた紙に注目しません。文字が上にあってもなくても、紙はそこにあります。文字が現実であるとみなす人々のために、あなたはそれが非現実であり、幻であると言わなければなりません。なぜなら、文字は紙に依拠しているからです。賢明な人は、紙と文字を一つであると見ます。ブラフマンと世界もまたそのようです。

 映画の場合も同じです。スクリーンはいつもそこにあります。映像は行ったり来たりしますが、スクリーンに影響しません。映像が現れても消えても、スクリーンが何か気にしますか。映像はスクリーンに依拠しています。しかし、映像はスクリーンにとって何の役に立ちますか。スクリーン上の映像のみを見て、スクリーンそのものを見ない人は、そのストーリーの中で起こる苦楽に悩まされます。しかし、スクリーンを見る人は、映像がすべて影(幻)であり、スクリーンから離れた別の何かではないと理解します。世界もまたそのようです。世界はまったく影絵芝居そのものです。

 質問者はその答えに喜び、いとまごいをし、去ってゆきました。

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