2019年10月8日火曜日

バガヴァーンとの日々⑫ - 46年1月22日ら46年1月26日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p113~122

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月22日

 朝早く、パラヤーナの直後、バガヴァーンはバララムにテルグ語の詩節を見せ、それを改善するために彼の提案を求めました。バララムは、「私が行うべき提案が何かあるでしょうか」と返答しました。バガヴァーンは、「分かりません。私はあなたのような人々に尋ねなければなりません」と言い、回転棚に詩節を差し込みました。

46年1月23日 夜

 シュリニヴァーサ・ラオ医師が、Reality in Forty Versesへの補遺の第10詩節の中で、バガヴァーンが私たちにソーハムと断言するように説いていないのか尋ねました。バガヴァーンは以下のようにそれを説明しました。

 全ヴェーダーンタは、デーハム、ナーハム、コーハム、ソーハムの4つの言葉に簡約できると言われています。この詩節には同じことが書かれています。最初の2行では、なぜデーハムがナーハムか、つまり、なぜ体が「私」ではない、ナ・アハムか説明されています。次の2行では、人がコー・アハム、つまり、私は誰か探求するなら、すなわち、人がどこからこの「私」が生じたか探求し、それを実現するなら、その時、そのような人のハートの中に、遍在する神アルナーチャラが「私」として、サ・アハム、ソーハムとして輝くだろう、すなわち、彼は「私はそれである」、つまり、「それが『私』である」と知るだろう、と書かれています。

 これに関連して、バガヴァーンはまた2詩節-1つはターユマーナヴァル、もう1つはナンマールワールから-を引用しました。(以下は)その両方の要約です。「私は分離した存在であると思い続け、『私』と『私のもの』について話し続けていたが、私がこの『私』について探求を始めたとき、あなたのみ存在することを私は知った」。2詩節とその意味が、以下に記載されます。

1. タミル語の詩節

2. タミル語の詩節

    (1) この「私」は誰か探し
       すぐに私は発見した
       あなたのみが至福なる天国として立つのを
       神聖なる主、あなたのみが!          -ターユマーナヴァル
 
    (2) 私は誰か知らずに
       「私」と「私のもの」について私は話していた
        しかし、私はあなたであり、私のものはあなたである
        全ての神々が崇める主よ            -ナンマールワール


6年1月24日 午前

 バガヴァーンは私のために上の2詩節を選び出し、ターユマーナヴァルの「タミル語」の第7詩節から以下の2行も引用しました。

タミル語の詩節

                                 私はあなたになり、あなたのみ存在しているが
                                 破壊されない「私」は存続している
                                 知る、内なる私として、そして、
                                 知られるものに変わる私として
                                 知っている、及び、知らない多くのものに(変わる)

 バガヴァーンは、多くの似たような引用がアールワールの歌の中で他に見つけられると言い足しました。S.ラオ医師は、バガヴァーンの手から「タミル語」(Tirivoimozhi)という本を受け取り、「なるほど、注釈もあります」と言いました。「私はあなたであり、私が私のものと呼んだ全てはあなたであることに私は気付いている」と書いてある、この詩節に関して、ヴィシシュタードヴァイタの注釈者は、「私と私のものを神自身とみなせるほど、私は神の近くに達した」と書きました。

 S.ラオ医師は言いました。「自らを実現した人々が、彼ら自身の間で意見を異にするはずがなく、様々な学派の指導者は、もし彼らが自らを実現した人たちであったなら、互いの教えに矛盾することを言ったはずがありません。しかし、彼らの支持者たちは、これら全ての分裂と現代の口論を引き起こすような方法で、その教えを誤解したか、誤って解釈したに違いありません」。S.ラオ医師は、彼がセーラムにいたとき、ある紳士が彼に聖ナンマールワールからの1詩節をしばしば引用したと言いました。その詩節の中で、そのアールワールは、ティルパティの神をヴィシュヌともシヴァとも描いています。

 郵便が、D.S.シャーストリ氏からの、45年11月25日のバガヴァーンのスカンダーシュラマムへの旅行に関する彼の妹のテルグ語の手紙の英訳を持ってきて、ヴィシュワナータ・アイヤル氏によって講堂で読み上げられました。パタシャラの少年たちが、「4匹のウサギが偉大な指導者を作っている」という印刷写真をバガヴァーンに見せました。10時15分ごろ、私が講堂にやって来たとき、バガヴァーンは私がそれを見たことがあるか尋ねました。私が「いいえ」というと直ちに、彼はそれを取りに行かせ、私に見せました。バガヴァーンは、「あなたは最初に4匹のウサギを見て、その後、どのようにそれがガーンディーを形作っているのか見なければいけません」と言いました。

午後

 午後3時ごろ、私が講堂に入ったとき、バガヴァーンはラオ医師が述べた詩節をすでに探しているところでした。ほんの短い時間で、私たちはその詩節をつきとめました。それは「タミル語」で始まり、ペーヤールワールがティルパティで神を見たときに、彼によって作られたと言われています。


 付添人のクリシュナスワーミが、マハートマー・ガーンディーに会いにマドラスに行きたいと、日曜日に帰ってくるだろうとバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「サルヴァーディカーリに聞きなさい。以後、私があなたに行く許可を与えたと言わないように」と言いました。彼は、「彼が今出かけるなら、彼が戻ってくるときサルヴァーディカーリは彼を受け入れないかもしれません。彼がマドラスから戻ると、彼を迎え入れることに彼(サルヴァーディカーリ)が反対するなら、どうしたらいいのですか。ここで、どんな権限を私は持っていますか」と言い足しました。この全てにも関わらず、バガヴァーンに行って戻ってくると告げ、クリシュナは出かけました。

46年1月25日

 ローカンマルが、TiruvachakamからTirukkazhukkunra Pathigamを歌いました。ムルガナールはそこで直ちに、「タミル語」(恥じることなく恥じた)の意味は何か尋ねました。バガヴァーンは、それはタミル語(探すことなく探した、考えることなく思った)のような表現の1つであるかもしれないと、そして、タミル語(どうすれば人は考えることなく考えられますか。これらは全て言い方です。他の言い方はありません)と言いました。同様に、ムルガナールは、「タミル語」(おお、64人のヤクシャに8つの霊的達成を授けた、主よ)の中の引喩は何か尋ねました。バガヴァーンは確信を持っていませんでしたが、それはTiruvilaiyadal Puranamの中の物語の1つだと思いました。私はスブラマニアン・ピッライによる注釈付きのTiruvachakamの私の写しを取りに行きました。「タミル語(恥じることなく・・・)」などに関して、その本は全く光明を投じませんでした。後の行(64人のヤクシャ・・・)に関して、その本には、引喩はウッタラコーサマンガイの物語に対するものだと書いてありました。バガヴァーンは、Tiruvilaiyadal Puranamを受け取りましたが、そこでその物語を見つけられませんでした。そこで見つかった物語は、やはり6人の「タミル語」(ヤクシャ)についてでしたが、別のものでした。ムルガナールは、「このウッタラコーサマンガイの物語は、出版されていないようです。私たちが先の本(Tiruvachakam?)を手に入れられるなら、聖マニッカヴァチャガールの人生の多くの物事と彼の多くの言葉や歌がより明らかになるようです。私たちはその本が手に入れられるのか問い合わせなければなりません」と発言しました。


 パラヤーナの後、バガヴァーンはヴィシュワナータ・アイヤルに、「どの場所を訪れたのですか」と尋ねました。ヴィシュワナータは、「私たちはグーハ・ナマーシヴァーヤールの洞窟、マンゴーツリー洞窟、ヴィルーパークシ洞窟、スカンダーシュラマムに行きました。私たちは新しい道を通って戻りました。その道はとてもよく作られているので、私たちは苦労せずに戻ることができました。それはとても素晴らしい坂です」と返答しました。バガヴァーンは、彼らがムライパール・ティールタムから近道を通って行ったのか尋ね、ヴィシュワナータは「はい」と答えました。バガヴァーンは言いました。「私が今それらの場所を見ると、当時は岩と石とトゲだらけだったそれらの場所に私たちはどうやって住んでいたのだろうかと思います。しかし、当時、私たちは非常に快適で、くつろいでいました。私たちは決して不便を感じませんでした。明かりはありませんでした。私たちは岩と低木だらけの中を暗闇の中でさえ歩いたものでした。ある人が言ったように、私たちは明かりと目の両方を足に付けていました」。私が講堂から少し離れたとき、ソーナ・ドラブジ嬢(彼女と彼女の父親は、アーシュラマムの頻繁な訪問者で、バガヴァーンの熱心な信奉者です)が私に、上の全ての洞窟をヴィシュワナータ氏に付き添ってもらったのは私です、と言いました。

46年1月26日 午前

 バガヴァーンは、マドヴァ学派についての本に言及しました。S.ラオ医師が棚から取り出し、以前はアンナーマライ大学所属のB.N.クリシュナムルティ・サルマという人による、「マドヴァの有神論的現実主義の、ある哲学的基礎」に関する2冊の小冊子を私に渡しました。バガヴァーンは、その紳士は一昨日来て、その小冊子を直接手渡したと言いました。「彼は来て、サンスクリット語で話しました。彼はティルヴァイヤールのサンスクリット大学の学長です。彼は全ての人がサンスクリット語で話すべきだと言います。彼は、たくさん読んだが、真理を実現することができないと言います。私たちは彼に私たちの本を読み、助けになるか確かめるように勧めました。彼はここからいくつか本を持って行きました」。

 バガヴァーンは、数分間その小冊子をあちこち調べました。しかし、彼は興味を持っておらず、「これは全て学者向けです」と言いました。ラオ医師が、ムクティを扱っている、ある文章を指摘しました。それは、ムクティの後でさえ、それぞれのジーヴァは個人性を保つと、ジーヴァの階層構造と共に、ムクティを得た人たちの間にいくつかの段階が存在する、など書かれています。ラオ医師は、「他者がいる限り、人は恐怖を持つでしょう。より高い段階がある限り、人はそれに達したいという欲望を持つでしょう。そのため、これは、唯一、完全な安らぎをもたらしうる、恐怖も欲望もない、かの段階のはずがありません」と言いました。バガヴァーンはこれを承認し、恐怖も欲望もない、かの至高の境地についてのサンスクリット語の聖句を引用しました。

 (すでに言及された)パンジャーブからの盲目のムスリムが、今日、再び講堂にやって来ました。バガヴァーンは、Swadesamitranで、ネロールの盲目の人についての記事をほんの数分前に読んだところでした。彼の年は41で、マドラスでマハートマー・ガーンディーのダルシャンを得ていて、シャンカラの注釈つきのギーターをまるまる復唱できました。このことは、このムスリムがコーラン全てを復唱できるので、この2つのケースの類似性について私たちを話す気にさせました。バガヴァーンはテルグ語の新聞、Zamin Ryotを読んでいて、ネロールのカナカンマとラクシュミー・バーイー(バガヴァーンの信奉者で、ここの頻繁な訪問者)によるテルグ語のいくつかの詩節を目にしました。彼はその詩節を切り取り、ファイルブックに張り付けるようにバララムに頼みました。「この詩節はここで去年のジャヤンティに作られ、読み上げられましたが、今新聞に発表されています」とバガヴァーンは私たちに言いました。タレヤーカン夫人の要望で、その詩節は今日、ナーガンマによって講堂で読み上げられました。昼食の鐘が鳴ったとき、バガヴァーンは盲目のムスリムについて言いました。「彼がお昼をとっていくのか確かめて下さい。もしそうなら、ヒンディー語を知る誰かが彼の世話を引き受け、彼と一緒にいなければいけません」。彼は私たちによって大切に世話されるでしょうと私たちが言って初めて、彼は満足しました。

午後

 タレヤーカン夫人の要望で、ナーガンマは、マートゥ・ポンガルの日にここで起こったことについての彼女の記述を読み上げ、バララムはそれを英語に翻訳しました。彼女はまた、9月のある日に起こったことについての別の記述も読み上げました。バンガロールの信奉者たちが2羽のハトを持ってきて、アーシュラマムで飼うようにバガヴァーンにお願いした時のことです。どのようにそのハトがバガヴァーンに優しくなでられ、彼の膝上に座るという大変な幸運を得たのか、どのようにほぼ1時間の間、彼らがサマーディにいるかのよう静かにしていたのかは、全てナーガンマによって美しく書き留められていて、バララム氏はこれも翻訳しました。

 私はマドヴァの哲学に関する小冊子を手に持っていて、バガヴァーンは私に、「それを読みましたか」と尋ねました。「これは私の興味を引きません。バガヴァーンがおっしゃられたように、それは偉大な学者だけの興味を引くのかもしれません。しかし、私が時々感じるように、この著者も、『どうして常に存在していないなら、現実として扱うことを拒否しければならないのか』と尋ねています」と私は言いました。バガヴァーンは、「束の間のショーでしかないものを、どうして現実であると言えますか」と言いました。講堂の誰かが、「この全ての問題は、英語への翻訳のために生じています。サンスクリット語の言葉はサティヤムで、その意味は、現実ではなく、常に存在するものです」と言いました。バララムもまた、「存在するものは、決して存在しなくならない。(どの時点においてでも)存在しないものは、存在していない(タミル語)」と書いてあるギーターを引用しました。しばらくして、スッブ・ラクシュミー・アンマル(ここの台所でずっと奉仕をしているバラモンの未亡人)が、「私はケーライ・パーティが住んだ洞窟を今まで見たことがありませんでした。それで、昨日、その場所を見に行きました」と言いました。バガヴァーンは、「あなたが見た洞窟はどれですか」と尋ねました。スッブは、「それはアーラマラトゥ・グーハイと呼ばれています。私はそれを見ました。私たち皆がスカンダーシュラマムから戻った日に、バガヴァーンが、『ケーライ・パーティが住んだのはここです』と言いました。それで、私はそれがその洞窟であると思いました」言いました。バガヴァーンは、「いえ。それは彼女が住んだ洞窟ではありません。彼女は近くのグーハイ・ナマーシヴァーヤール寺院のマンパタムにだけ住みました。今、アーラマラトゥ・グーハイと呼ばれる洞窟に私はしばらく住んでいました。当時、バニヤンの木はありませんでした。その木とヴィルーパークシ洞窟までの両側の全ての木は、後にスカンダーシュラマムを計画し、作ったカンダスワーミによって全て植えられ、水を与えらえました」と言いました。その後、バガヴァーンは昔を思い出して、言い足しました。「私が初めてやって来て、そこのスブラマンヤール寺院に座っていたときにさえ、このケーライ・パーティは大寺院にいました。彼女は寺院のサードゥに食べ物を提供していました。後に、彼女は、よく食べ物を送っていた、あるカンマラ(鍛冶屋)の女性からの食事を私に持ってき始めました。しばらく後、ケーライ・パーティを通じて送るのではなく、そのカンマラの女性自身が食べ物を私に持ってき始めました。当時、ケーライ・パーティには、大きなジャタ(もじゃもじゃの髪の房)がありました。私が後にヴィルーパークシ洞窟に住むようになったとき、彼女はグーハイ・ナマーシヴァーヤール寺院に住んでいて、その時、髪を全て剃り落としました。彼女はそこのマンタパムに住み、マンタパムの壁や柱に彫られたナマーシヴァーヤールなどの像を崇拝していました。僧侶が内部の像を崇拝しに来ていました。しかし、彼女は彼女が住むマンタパムの壁の像を崇拝し、食べ物を捧げました。彼女は朝起きて、小さな丘の上を散歩に出かけ、私たちのアーシュラマムが今ある場所に向かって進み、スカンダーシュラマムがある場所に立ち寄り、彼女の場所に下って行きました。その頃までに、彼女は燃料や牛の糞などを集め、背中の後ろでそれを束にしていました。膝の上には、料理のためのあらゆる種類の多くの青葉を集めていました。彼女はポットを一つだけ持っていました。まずそのポットで水を沸かし、沐浴しました。同じポットで、彼女は米を調理し、ソースを作り、彼女が持ってきた葉っぱなどの副菜を用意し、それぞれかわるがわる、その食べ物を壁や柱の像に捧げ、私に持ってきて、その後、彼女自身の食事をとりに行きました。午後、彼女は町に行きました。町で彼女が知らない家はありませんでした。彼女は様々なものを求めに行き、それらを得ました。私のところに来て、彼女は、『善良な人が割れた米を一握りくれました。これでおかゆを作りました』と言いました。

 「しかし、見に行ってみると、彼女の居場所には様々な蓄えと大きなポット満杯の割れた米があありました。彼女はそういった女性でした。彼女は私をとても気に入っていました。私も時折、彼女のところに行きました。私は彼女が青葉を、例えば、ワサビノキから集めるのを手伝ったりしました。私はまた、調理される前の準備として葉っぱをきれいにしたり、むしったりするのを時々手伝いました。時々、私はそこにいて、彼女と一緒に食べました」。彼女がいつ亡くなったのか私はバガヴァーンに尋ねました。「彼女は、私たちがここに来る前に亡くなりました。彼女はただここ(アーシュラマム)に、ダクシナームールティ寺院の反対側のタマリンドの木の下に、埋葬されました」と彼は言いました。

 パラヤーナが終わったすぐ後、午後6時15分ごろ、サルたちが(彼らが果物と木の実をねだりに来るバガヴァーンのそばの窓が閉まっていることを知り)、同じ側の戸口付近に来ました。その戸口を通って講堂から出たいと思った女性や子供たちは、怖がりました。これに関連して、ヴィシュワナータ・アイヤル氏がマンティという言葉を使い、それはオスのサルを意味すると言いました。私は、「それはその正反対を意味すると思いますが。ピッライ・ペルマール・アイヤンガーからのこれを見てください。タミル語(マンティは彼女の仲間に土の中から根っこを彼女にくれるよう頼んだ)」と言いました。そこで直ちに、ムルガナールが、マンティは一般的に両方の性別を、特に女性を意味するために使われると言いました。バガヴァーンは、タミル語(私はサルの子供のようではない)を引用し、「そこでは明らかに、母ザルに言及しているはずです」と言い、さらに、マンティという言葉が見い出されるTirupaaugazhからのある歌とパッティナタールのタミル語Udarkkotruvannam)からの別の歌を思い出しました。この2つの歌はすぐに選び出されました。最初の歌はPalani Vaguppuです。その中の言及された個所がバガヴァーンによって読み上げられ、私たちに説明されました。それはパラニの肥沃さを褒め称えたもので、「ビンロウジの木に座っているマンティが、近くのビャクダンの木の上の花々を見て、それらが蛇の頭だと思い、怖がって別の木に飛び移りました。そして、そのように明け渡された枝々は、初めに下に曲がり、次に上に上がり、近くのプランテインの木々に房になって垂れ下がっている完熟のプランテインの実にぶつかり、プランテインをばらまき、今度は(プランテインが)下にあるジャックフルーツ(パラミツ)の上に落ち、その中で作られた蜜を流し出せました。その結果、放たれた大量の蜜が川に流れ入り、隣接するシャンバガの木の森を潤しています」と書いてあります。この全てはバガヴァーンによって説明されました。前の場合にも、私たちの(国の)詩人たちが国の肥沃さを誇張する例としてバガヴァーンがこれを挙げたのを私は聞きました。パッティナタールの別の行も選び出されました。それらは(以下のように)なります。タミル語。バガヴァーンはこの歌を最後の最後まで読み、韻律に従って朗読しました。

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