2015年2月18日水曜日

心の集中という修練の目的、優先すべきは自分自身の現実を知ること

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』

1945年10月19日 朝

 ボンベイからの法廷弁護士がバガヴァーンに尋ねました。「私はバガヴァーンの著作などを読みました。それらを知的に理解することはできますが、体験では何も実現できていません。私はバガヴァーンの方法を六年間試みましたが、まるで進歩していません。私が瞑想する時、他の思いがやって来ます。都市に住み、仕事を行い、ここに時おり来るだけの私のような人々にとって、私がこれまでできたよりも我々がうまくいくように、バガヴァーンはどのようなサーダナを勧めるでしょうか」。

バガヴァーン:
 あなたの本質はいつもそこにあります。あなたの瞑想などは、一時的に訪れるだけです。現実はあなたの自らであるため、あなたにとって実現すべきもの何もありません。必要とされる全ては、非現実を現実とみなすことをあなたが放棄しなければならないということです。全ての瞑想、ディヤーナ、ジャパの目的は、それだけ-自らでないものに関する一切の思いを放棄すること、多くの思いを放棄し、一つの思いから離れずにいることです。

 サーダナに関して言えば、多くの方法があります。あなたは、「私は誰か」あなた自身に尋ね、ヴィチャーラを行ってもかまいませんし、もしそれがあなたにとって魅力的でないなら、「私はブラフマンである」などのディヤーナを行ってもかまいませんし、もしくは、ジャパにおいてマントラや名前に集中してもかまいません。目的は、心を一点に集中させること、心を一つの思いに集中し、そうして、我々の多くの思いを排除することです。そして、我々がこれを行うなら、終には、その一つの思いさえも消え、心はその源で消え去ります。

訪問者: 
 実際の修練で、私は私の努力においてうまくいかないことに気づきます。バガヴァーンの恩寵が私に降りてこなければ、うまくいきません。

バガヴァーン:
 グルの恩寵は、いつもそこにあります。あなたはそれが空高く、はるか離れたどこかや何かであり、下りて来なければならないと想像しています。実際、それはあなたの内に、あなたのハートの中にあり、あなたが心をその源に退けたり、溶け込ますことを達成する瞬間、泉から吹き出るように、あなたの内側から恩寵が現れ出ます。

別の訪問客:
 この世界の現実性とは何ですか。

バガヴァーン:
 あなたがはじめにあなたの現実性を知るなら、世界の現実性を知ることができます。たいていの人が彼ら自身の現実性について知ろうと思わずに、世界の現実性についてしきりに知りたがるのは奇妙なことです。あなたは、まずは、あなた自身の自らを実現し、その後、世界があなたと独立して存在するのか、あなたの前に来て、その現実性や実在を主張できるのか確かめなさい。

別の訪問客:
 例えば子供たちのように、罪のない人々にさえとても多くの苦しみが存在するのはなぜでしょうか。いったいどのように説明できるのでしょうか。前世などに関連してでしょうか。

バガヴァーン:
 世界に関して言えば、あなたがあなた自身の現実を知るなら、これらの質問は起こりません。これら全ての相違、あなたが言うような罪のない人々の痛みや苦しみは、あなたと独立して存在しますか。それらの物事を見て、それらについて尋ねるのは、あなたです。「私は誰か」という探求によって、あなたが見る者を理解するなら、見られるものについての全ての問題は完全に解決されます。

サイード博士:
 人が精神的利益を2年ほど願い求めても、聞き入れられないなら、彼はどうすべきですか。

バガヴァーン
 その願い事が叶えられないことが、彼のためであるかもしれません。

1945年12月28日 午後 (前略)

 我々のチャガンラル・ヨーギに紹介され、ジョーシー氏という人が、以下の質問をし、バガヴァーンは以下の答えを与えました。

質問1:
 「私は誰か」と考える時、「私はこの死すべき体ではなく、私はチャイタンヤ(*1)、アートマ、または、パラマートマである」という答えがやって来ます。そして、突然、別の質問が起こります-「なぜアートマはマーヤーに入ったのか」、もしくは、言い換えるなら、「なぜ神はこの世界を想像したのか」。

答え:
 「私は誰か」探求することは、実際には、自我、または、「私」なる思いの源を探しだそうと努めることを意味します。「私はこの体ではない」などのような他の思いを考えるべきではありません。「私」の源を探すことが、他の一切の思いを取り除く手段として役立ちます。あなたが述べたような他の思いを働かせる余地を与えるべきではなく、(それぞれの思いが生じる時に)誰にその思いが起こったのか尋ねることによって、そして答えが「私がその思いを得た」であるなら、この「私」は誰か、その源はどこからかさらに尋ねることによって、「私」なる思いの源を見出すことに注意を定めておくべきです。

質問2:
 アートマは、サークシャートカーラ(*2)の対象ですか。

答え:
 アートマは、そのままにあります。それはいつもサークシャート(*3)です。一方が知り、他方が知られるという二人のアートマは存在しません。それを知ることとは、それであることです。それは人がそこで他の何ものも意識しない境地です。それは意識そのものです。

質問3:
 「ブラフマ・サティヤム・ジャガット・ミティヤム(ブラフマンは現実であり、世界は非現実である)」の意味が私には理解できません。この世界は現実に存在しているのでしょうか、していないのでしょうか。ジニャーニは世界を見ないのでしょうか。それとも、彼はそれを異なる姿で見るのでしょうか。

答え:
 世界にその現実性や虚偽性について悩ませておきましょう。まずは、あなた自身の現実性について見出しなさい。その時、全ての物事が明らかになります。ジニャーニがどのように世界を見るかは、あなたが心配することではないでしょう。あなたはあなた自身を実現しなさい。その時、あなたは理解します。ジニャーニは、名と形からなる世界が自らを制限していないこと、自らがそれらを超えていることを知っています。

質問4:
 私はどのように崇拝すべきか知りません。崇拝する方法をどうぞ私にお示しください。

答え:
 「崇拝する者」と「崇拝されるもの」が存在しますか。崇拝する者である「私」を見出しなさい。それが最良の方法です。いつも見る者が追跡されなければなりません。

(*1)チャイタンヤ・・・意識、精神、知性
(*2)サークシャートカーラ・・・実現すること、明らかにすること
(*3)サークシャート・・・顕現している、明らかである

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