2015年2月12日木曜日

シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサ - 普遍の真理の体験者

◇「山の道(Mountain Path)」、1969年4月 p90~91

シュリー・ラーマクリシュナの普遍性

スワーミー・ヴィシャダーナンダ

 シュリー・ラーマクリシュナの偉大な達成の一つは、宗教間の調和を彼が強調したことでした。 彼はヒンドゥー教徒として生まれ、伝統的なヒンドゥー教の生活様式に従いました。彼はヒンドゥー教の神々や女神を崇拝しました。しかし、彼はそれらの根底にある唯一の至高なる神を崇拝し、明示しました。

 彼は理論を記しませんでしたが、その教えを素朴な短い物語で説き、それらの多くは(後に述べられる二つの物語のように)起源の古いものです。4人の旅行者はみな、水を欲しがり(もしくは、別説では、水は持っていて、みなは市場へ行き、各々が異なる種類の果物を求めました)、彼らが欲しがったものを受け取った時はじめて、彼らはみなが同じものを各々異なる言葉で求めていたことを悟りました。または、盲目の人々の一団みなが、象を言い表わそうと試みました。ある人は象の足を触り、象は柱のようだと断言し、別の人は耳を触り、箕(み)のようだと言い、また別の人は鼻を触り、縄の一種であると言い、さらに別の人は尻尾を触り、はけの一種であると言い、最後に、目の見える人がやって来て、彼らに、「それに関して言えば、あなたたちはそれなりに正しいのですが、象はその全てであり、それ以上のものですよ」と伝えました。神の性質について内輪もめをする様々な宗教の信奉者の場合も同様です。真理は神ですが、神の信奉者の定義を超えています。リグヴェーダで述べられるように、「彼は一者であるが、彼らは彼を様々な名で呼ぶ」のです。全ての宗教が、神へ通じる道です。

 この種の宣言は、シュリー・ラーマクリシュナ側の単なる理論ではありませんでした。狂気か絶望の瀬戸際まで彼を追いやるほどに激しい努力によって、彼は神を実現し、ニルヴィカルパ・サマーディという至高の境地に到達しました。いったんこの神聖な境地を得た後、彼は頻繁に忘我状態に陥り、啓示の言葉を発したものでした。彼は諸宗教の一致を自ら体験したいと思い、それで、ヒンドゥー教を通じて最高の境地を達成した後、彼はキリストとキリスト教に一心に専念し始めました。彼はキリストが庭園を歩く映像を見て、キリスト教の表現において同一の真理を体験しました。彼はまたイスラム教にも専念し、同じ真理を体験(理解ではなく、体験)しました。


「シュリー・ラーマクリシュナ・アーラティ」 スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ作

 彼は神々や高次の領域の神聖な姿から、聖なる母から啓示を受け取ったものでした。彼自身の啓示もまた彼にとっての拠り所であり、彼は忘我状態の崇高な境地でそれらを口にしました。他の宗教においてだけでなく、ヒンドゥー教の様々な教派の内でもまた、彼は様々な道-ヴィシュヌ派、シヴァ派、シャクティ派など-で実験し、それらを通じて同一の究極的神性、安らぎ、幸福を実現しました。彼自身が、キリストやイスラム教やヒンドゥー教の神の顕現を実現する時に、同じ神性を感じたと言いました。彼は、神は一者であるが、彼へ通じる道は多いと言明しました。必要とされることは直接的な自らの体験であり、各人が自分自身で得なければなりません。また、彼は良く知られた素朴な喩えを使いました。どれほど多くの形や色であっても、砂糖菓子は同じ砂糖から作られています。なすべき肝心なことは、形や色について論じ合うことではなく、それらを味わうことです。彼はよく、「宗教は道のようなもので、どれほど遠くの国から人が来ようとも、彼を目的地に連れゆく何らかの道を彼は見つけることができます」と言いました。ただ彼はその道をしっかりと信念をもってたどり、他の人々には彼らの道をたどるに任せておかねばならないだけでした。他のいかなる道への憎しみ、および、それをたどる人々への妨害は、神である道の作り手自身への妨害を意味するだけです。

 シュリー・ラーマクリシュナは、宗教について論じ合いませんでした。彼は読み書きができず、議論をまるで好みませんでした。彼は神を全世界の母として、または、ジャガダンバ、宇宙の根源として崇拝しました。しかし、このことはより付属的な神々や天の国々が存在しえないということではありません。迷信や価値のない習わしもあるかもしれませんが、真実のものもあり、それらについてシュリー・ラーマクリシュナ以上に知る者はいません。天の国々や、形を伴いながら形を伴わない神聖な境地があることを彼は知っていました。ヒンドゥー教は、ヴァイクンタを神々しい姿形からなる楽園として語ります。それを超えて、姿形を持たずに人格神が君臨するブラフマローカがあります。それさえも超え、シュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』の中で、彼の究極の住まいである、至高なる不顕現のものについて語りました。仏教は神について語りませんが、同様に高次の領域について教え、清められた者はデーヴァや他の悟った存在と共に、栄光と喜びを体験できます。しかし、ヒンドゥー教と仏教が共に導く、悟りの最終的な境地は、ヒンドゥー教徒にはニルグナ・ブラフマンと呼ばれ、仏教徒には個人の経験が存続しないニルヴァーナと呼ばれています。シュリー・ラーマクリシュナは人々にこれについて理論化することを勧めませんでしたが、無限に継続する普遍的な悟りの境地の体験を求め努力することを勧めました。彼は人が一心に従うどのような宗教を通じてでも、それを得ることができると確証しました。道々は異なるかもしれませんが、究極的な体験は同じです。彼は宗教間に多くの接触があった時期に生きたため、彼のこの自らの確信がとりわけ必要とされました。これに耳を傾けようではありませんか。


シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサの格言


神は全ての道を通じて実現することができる
全ての宗教は真実である
重要なことは、屋根に達することだ
あなたは石の階段で、木の階段で、竹の階段で、または、縄でそれに達することができる
あなたは竹竿でよじ登ることもできる

宗教について語ることは簡単だが、それを実践することは困難である

もし神が真の行為者であり、人が自分一人では何をするにも無力であることを知るなら
たとえここに、この肉体をもった状態でも、人は全くの自由である

東へ行きたいと思うなら、西へ行くなかれ

神の目が得られる時、一切は等しく見え
善悪や、尊卑などの区別は後に残らない

普遍的な自らなる真の知によって、あなたがはじめにあなた自身を強くし
その後、富と世俗のまっただ中で生活するなら
間違いなく、それらは少しもあなたに影響を及さない

神は全ての人の内にいるが、全ての人が神の内にはいない
それゆえに我々は苦しむ

世界とは、まさに、真実と偽りの混合物である
偽りを捨て、真実を手にとれ

富や名声や人を快適にするものといった儚いものへの愛着が
毎日、より少なくなるようにと神に祈れ

神はあらゆる所にいる、彼は人の内にもっとも顕れる
それゆえ、神として人に仕えよ。それは神を崇拝することも同然である

ある類の医者は、薬を処方して、患者の脈に触れ、立ち去る
彼らが部屋を去る時、患者にただ薬を飲むように求めるだけだ
彼らは医者の中で最も劣った類である

借家人が家の使用ために家賃を支払うように、病とは人が体に支払う税金である

花開く時、蜂は招かれずとも訪れる

それを通じて神に近づきうる神の名はより多く、その形は無限である
どのような名や形で彼を崇拝しようとも、それらを通じてあなたは彼を実現する

束縛は心に関してあり、解放も心に関してある
あなたが、「私は自由な魂だ。私は神の子だ。誰が私を束縛できるのか」と言うなら
あなたは自由になるだろう

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