2019年3月27日水曜日

バガヴァーンとの日々⑥ - 45年11月24日から45年12月6日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p50~59

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年11月24日 午前

 バガヴァーンは、昔、彼がよく山頂に登った方法について話しました。どのような道を通ってでも、もしくは、道がなくても、彼は登りたい気がした時にはいつでも登りました。草刈り人たちだけが彼の使った道のいくつかを知っていたと彼は言いました。「時々、人々がマドラスや他の場所からやって来て、山の頂上にたどり着こうとして、スカンダーシュラマム近くで道に迷っていたものでした。そこで座っていた私を見つけ、彼らは山頂への道を私に尋ねたものでした。私が道は彼らの右の方で、北に向いていると彼らに伝えたとき、『私たちが誰で、どこから来たのか知ってますか。私たちはマドラス出身です。その手には乗りません。頂上はここ私たちの真上です。あなたは私たちを道に迷わせたいんです』と言う人達もいました。私は黙っているのが常でした。彼らはまっすぐに登ろうとして、長い時間の後、頂上にたどり着こうとする彼らの努力が全て無駄だったとことに気づき、疲れ果てて戻って来ました。私に近づくと、彼らは恥じてこうべを垂れ、私を避けて去っていったものでした」。

45年11月25日

 バガヴァーンは、彼がスカンダーシュラマムで生活していた間、どのようにチーターたちがよく彼を訪れたのか語りました。「ある時、チーターが明らかに攻撃的に思える恐ろしい唸り声を上げましたが、我々に何もせず、サルたちを追いかけに行きました。別の時、チーターが悠然と歩いて上ってきて、アーシュラムに近づくや否や大きな唸り声を上げましたが、その声にはただ平穏だけが見受けられ、攻撃性は見受けられませんでした。それはただその到着を知らせたいだけで、それ以上なにもないかのようでした。それはとても近くに来ました。スカンダーシュラマムで山の小川が今、流れているところにです。そして、しばらくして、別れを告げるかのように、もう一度唸り声を上げ、ゆっくりと歩み去りました」。

 朝食後、バガヴァーンはいつもように付添人を一人だけ伴ってスカンダーシュラマムに行きました。最近、スカンダーシュラマムは完全に修繕され、完璧な状態になり、ラマナーシュラマムの背後のそこへ続く山上の道もまた改善されました。その出来事を祝うため、そして、バガヴァーンが存分に楽しむことを我々が知った彼の昔のアーシュラマムで彼がいくらか時を過ごす機会を与えるために、バガヴァーンと信奉者全員がそこでその日を過ごし、ここには夕方にだけ帰って来る手はずでした。午前9時30分ごろまでに、200人ほどの人々がスカンダーシュラマムに詰め込まれ、我々は皆、午後になってようやく帰りました。バガヴァーンは4時15分ごろに出発し、午後5時30分ごろにラマナーシュラマムに着きました。スカンダーシュラマムで、バガヴァーンは幸せそうで陽気なムードでした。天気は、しかしながら、いささか曇り、冷え冷えとしていて、身を切るように冷たい風がほとんどの時間吹いていました。バガヴァーンは、スカンダーシュラマムとヴィルーパークシ洞窟で彼が生活する間に起こった様々な出来事を丁寧に事細かに物語りました。スカンダーシュラマムという名前が付けられたのは、そのアーシュラマムが古くからの弟子、カンダスワーミという人によって、大変な自己犠牲と人の手を借りない彼の肉体的努力によって、もともと計画され、建てられたからだと彼は説明しました。「この山で、必要が生じるときに、水が以前なかったところに、それも何の気配も見られなかったところに湧き出る様子は、奇跡です。その必要がなくなる後、水もまた消えます」と彼は述べました。彼は、今スカンダーシュラマムを流れている山の小川の歴史をたどり、どのように彼が最初、はるか上にその水源を発見し、その後、それを下に導くために弟子たちと共に働いたか(話しました)。ある夜、暴風雨になり、朝、町の人たちには、その距離から、あたかも大きな道路が一夜にして作られたかのように見えました。この出来事の間、パーダ・ティールタム(タミル語)と呼ばれる貯水槽は完全に満杯になり、貯水槽がもとあった場所には泥と岩が15フィートほどの高さまで積み重なっていたようです(後で、45年12月12日に、ある信奉者によってこの貯水槽の半分か、4分の3が再び復元されたことをバガヴァーンから知りました)。

 バガヴァーンはまた、彼がヴィルーパークシ洞窟とスカンダーシュラマム滞在中に関わったサルたちの歴史を詳しく物語り、特にどのようにタミル語(「足の不自由な男の子」、バガヴァーンの彼への愛称)がバガヴァーンの影響を受けたのか説明しました。バガヴァーンがヴィルーパークシ洞窟にいた間に、一匹のサルが当時の王様ザルにひどくかまれ、ひっかかれ、死んだものと見なされて洞窟近くに捨てられたようです。バガヴァーンは彼を憐れみ、看護し、彼は回復しました。以来、彼はバガヴァーンを慕い、いつも一緒にいて、日々の食事をバガヴァーンのアーシュラマムで得ていました。他のサルたちがそこに来た時、足の不自由なサルは彼らがバガヴァーンに近づくのを許さず、バガヴァーンに彼の足を不自由にした王様を指さしました。しかし、後には、全てのサルがそこに来て、彼らのかつての敵、足の不自由なサルに敬意と愛情を示したものでした。そのうちに、足の不自由なサルはサル王になりました。ある日、バガヴァーンとその一行は、スカンダーシュラマムを出発し、ギリプラダクシナに出かけ、後に残る一人か二人にアーシュラマムを任せました。バガヴァーンの不在時に、足の不自由なサルと他のサルの群れが来て、スカンダーシュラマムの全ての木の枝先や細枝を折り、彼らがそこで見つけた全てを滅茶苦茶にしました。バガヴァーンはどうして彼らがそうしたのだろうかと思っていました。次の日、サルたちは再びやって来て、足の不自由なサルが最も高い木に登り、その頂上に達し、木を揺らし、その後、降りてきました。これはサルの間での王の優先権の合図のようです。バガヴァーンがいつものように足の不自由なサルに食べ物を与えたとき、彼は食べようとせず、それを与えた人を他の3匹のサルが座っているところへ連れ行き、そこで彼は彼女たちと食べ物を分け合いました。3匹のサルは退位した王の妃で、彼らの慣習、しきたりによれば今や足の不自由なサルの妃でした。それで、バガヴァーンは足の不自由なサルが王様になったこと、そして、前日、彼らは皆、バガヴァーンの面前で戴冠式を行うためにやって来て、バガヴァーンの不在に気づき、枝を折ることなどでその失望や悔しさを表したことを知りました。

 足の不自由なサルはその後、3匹の妃の間に6匹の子供をもうけ、彼が毎日食事をとるとき、6匹全てがバガヴァーンからそれぞれ一口もらったものでした。足の不自由なサルは2度無作法にふるまい、バガヴァーンを叩いて傷つけたようです。毎回、バガヴァーンはその面前に出るのを彼に許可しないことで彼を罰しようと思いました。しかし、彼のお気に入りが後悔していることに気づき、責任があるのは彼のいたずら好きの性質でしかないと知り、バガヴァーンは彼を許しました。その内の一度は、バガヴァーンがそのサルのための牛乳を一皿手に取り、サルにとってそれが熱すぎたので、冷ますために息を吹き込もうとしたときでした。サルはバガヴァーンが自分で飲むために口の近くに牛乳を持ってきていると思いました。スカンダーシュラマムでは、時々、クジャクとヘビが、一方は尾を広げ、他方は頭をもたげて、彼の前で並んで遊んだものだったとバガヴァーンは言いました。この日、大勢の信奉者全ての主人役を務めたの人々は、共にバガヴァーンの優れた信奉者、T.K.ドーライスワーミ・アイヤル教授とバンガロールのサタコーパ・ナイドゥ氏でした。ナイドゥ氏に関して、以下は心理学上の興味深い研究として語るに値します。

 ナイドゥ氏は、バガヴァーンと知り合って、今では35年ほどです。彼がバガヴァーンと知り合って数年後、彼は一度ヴィルーパークシ洞窟に行き、バガヴァーンが出かけたことに気づき、ある場所に座ったようです。少しして、バガヴァーンが戻り、ナイドゥ氏は彼が座っていた場所がバガヴァーンが普段腰かけとして使っていた、まさにその場所であったことを発見しました。これがナイドゥ氏に大変なショックを与えたと言われていて、彼はアーシュラマムのほとんど永住者になり、アーシュラマム内に彼自身の永久的な部屋を持つのに、バガヴァーンの前に全く来ようとせず、ましてや講堂で座ったり、バガヴァーンと共に食事をとったりしません。さらに前、ナイドゥ氏が年に1度か2度アーシュラマムを訪れていた時、彼はあまりに気恥ずかしく感じてバガヴァーンの前に姿を現せませんでした。彼はそのもともとの出来事について決して話しません。私はそれゆえに他の人々から聞いたことを語ることで満足しなければなりません。

45年11月27日

 この場所への2度目の訪問中で今ここにいる、サロージニ・ハティー・シング嬢(ジャワハルラール・ネルーの義理の兄(か弟)、ハティー・シング氏の姉(か妹))が、バガヴァーンの日々の生活を撮影し、世界に公開してもらいたいという望みを言い表しました。私は彼女に、K.K.ナンビアール氏が同様の考えを抱き、数か月前に映画撮影機で2、3場面を撮影しさえしたが、フィルムか操作者のどちらかに何か問題があったためか、なんの成果も得られなかったと話しました。ハティー・シング嬢は、今回ここから帰った後、その準備をすると言いました。食事の時間に、母親と他の人々と共に今月24日のオウロビンドーのダルシャンからここに来た、インドゥマティ嬢(アンバラール・サラバーイの親族)が、何気なかったり、ユーモラスな出来事や発言を含んだ、バガヴァーンの普段の生活を扱った本があるか私に尋ねました。私は否定的に返答し、彼女はそれがあってしかるべきだと言いました。彼女は、「私たちがここに来る前、私たちはバガヴァーンがとても人間的で、彼がとても自由に動き、話し、ユーモラスな発言さえすることを知りませんでした。私たちは彼の霊的卓越性についてだけ知っていました。彼を人として私たちのより近くに連れてくる、この全ての側面を明らかにする本があってしかるべきです」と言いました。

45年11月29日

 27日の夕方、私はヴェールールに行き、今朝、地方判事のA.ロボ氏とその妻に彼らの家で会いました。二人ともバガヴァーンについて尋ね、ロボ氏は、アーシュラマムでのバガヴァーンの人生と行いの何らかの記録があってはどうかと提案しました。

  ロボ氏の家から、私は当時ヴェールールで仮住まいをしていた相談役、サー・ノーマン・ストラシーのところに行きました。そこでも再び自然と、我々はアーシュラマムについて話していました。彼は沈黙を通じてバガヴァーンの教えを聞いたと言い、「私たちはそれを理解できます」と言い足しました。

45年12月1日

 私は昨晩ここに戻りました。10月と11月の20日間ばかりここに滞在していて、ラーメシュワラムや他の場所へ巡礼に出かけていた、ウッタル・プラデーシュ州政府の主任技師、マハー・ヴィール・プラサードが、ここに戻っています。マハー・ヨーガのある一節に関連した彼のいつもの質問の続きで、彼は、「私は誰か」という心の探求を始める前に、呼吸を見守ることが人にとって必要なのか、先行条件なのかバガヴァーンに尋ねました。
  
バガヴァーン: 全ては、人のパクヴァ、つまり、彼の性質や適性しだいです。心を集中したり、制御し、それを探求に向ける心の力を持たない人々は、呼吸を見守るよう勧められています。なぜなら、そのように見守ることは、自然に、そして、当然のことながら、思いの停止につながり、心を制御下に置くでしょうから。

 息と心は同じ場所から生じ、その内の一方が制御される時、他方もまた制御されます。実のところ、探求の方法において-それはより正確には、単に「私は誰か」でなく、「私はどこより生じるか」ですが-私たちは、究極的な現実として残るものに達するために、「我々は体でない、感覚でない、など」と言って(体や感覚などを)単に取り除こうとしているのでなく、どこより自我として「私」なる思いが私たちの内に生じるのか見出そうとしています。その方法は、その内に、明示的でなく暗示的にですが、息の見守りを含んでいます。私たちがどこから全ての思いの源である「私」なる思いが飛び出すのか見守るとき、私たちは必然的に息の源もまた見守っています。「私」なる思いと息は同じ源から生じるからです。

 プラサード氏は、息を制御するために、1対4対2の割合で息を吸い、止め、息を吐くように規定されている規則的なプラーナーヤーマはより良いのかどうか再び尋ねました。バガヴァーンは、「時には、数を数えることによってでなく、マントラを口にすることなどによって調整される、そういった割合すべては、心の制御するための助けです。それが全てです。息を見守ることまた、プラーナーヤーマの一つの形です。息を止めることなどはより乱暴で、ある場合、例えば、サーダカを一歩一歩全ての段階で導く適切なグルがいない時には有害になるかもしれません。しかし、単に息を見守ることは簡単で、危険を伴いません」と答えました。

 年配の紳士、ティンドゥッカル出身の代議士、スワミナータ・アイヤル氏が来ました。彼と一緒に、ラマナと呼ばれる3歳ぐらいの男の子がいました。どうやらその子はその時までバガヴァーンに会ったことはなかったようですが、バガヴァーンについてたいそう聞いていたようです。それで、その子は講堂で「タミル語」(つまり、ラマナを今見つけた)と言いました。それは自然と我々皆の笑いを誘い、バガヴァーンもその笑いに加わりました。

 その年配の紳士は、サハジャ・サマーディを達成する前に、ニルヴィカルパ・サマーディをまず経るべきかバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは、「私たちがヴィカルパを持っていて、それを放棄しようとしている時、つまり、私たちが未だ完成されず、心を一点に向け続ける、もしくは、心を思いなく保つための意識的な努力をしなければならない時、それはニルヴィカルパ・サマーディです。修練を通じて、サマーディに入ったり再び出たりすることなく、私たちが常にその状態にいる時、それがサハジャの境地です。サハジャにおいて、人は常に自分自身を見ます。彼はジャガットをスワルーパ、もしくは、ブラフマカーラとして見ます。ディヤーナやジニャーナやバクティ、人がどのような方法に従っても、かつては手段であるものが、終には、目的そのものになります。サマーディは、私たち自身の、私たちの真の境地の別名です」と答えました。

 夕方、パーラーヤナの後、バガヴァーンは本を拾い読みしていました。バガヴァーンは私のほうを向き、それはB.V.ナラシンハ・アイヤル氏によるGlimpses of Sai Babaであり、シュロフ氏がバガヴァーンに見てもらうために持ってきたと言いました。私は、「ええ、今朝、私はそれをシュロフの家で見ました。それは何か新たなもの、サーイー・バーバーに関する彼の前作に含まれていないものを含んでいるのでしょうか」と言いました。バガヴァーンは、クップスワーミ・アイヤル判事によるその本の前書きを読み上げました。講堂にいたサイード博士が、彼がその本を読んだと、そして、それは新たなものを何も含んでいないと言いました。彼はまた、ナラシンハ・アイヤル氏が、主題に関して問われたとき、サーイー・バーバーが自らの実現を誰かに教えたかどうか言えなかったと言いました。ほとんど間髪を入れずに、サイード博士に反対するかのように、バガヴァーンはその本への前書きから、サーイー・バーバーが信奉者たちに物質的救済のための恩恵を授けただけでなく、自らの実現という究極の目的に向けて彼らの後押しもしたと書かれた一文を読み上げました。

45年12月2日

 アーシュラマムに昨晩到着した、ヴィジャヤナガラム州の王太后が、今朝、2、3人の他の人と共に講堂にやって来ました。シュリニヴァーサ・ラオ医師がバガヴァーンの足をマッサージしていました。バガヴァーンはシュリニヴァーサ・ラオ医師に、「あなたは座りに行きなさい。そうでなければ、彼らが来て、バガヴァーンの健康状態がどうかしたのか尋ねるでしょう」と言いました。医師はそれに応じてマッサージをやめました。バガヴァーンは、どんな理由でも彼のことで騒ぎ立てられることを好みません。

 午後、私はWonderful Indiaという本をバガヴァーンに見せました。その中には多くの写真が含まれ、バガヴァーンは写真を見ながら、その本を1時間以上熟読していました。

45年12月4日

 先月の中頃、講堂で、いくらか再配置が行われ、柵がバガヴァーンの寝いす周りの西側と南側に置かれ、全ての棚が講堂の東半分などに移されました。この全てが行われたとき、私はバガヴァーンの寝いす近くにそのように家具が込み合っていたら害虫が増えるかもしれないと述べました。それで、我々は殺虫剤について、戦時中に発見された最も効果的な殺虫剤のDDTについて話しました。今朝、シュロフ大尉がDDTをいくらか持ってきて、バガヴァーンのソファーを含め、講堂内と家具に吹きかけました。バガヴァーンは牛小屋に試してみるよう勧めました。可能ならば牝牛たちから彼女たちを今悩ましている全ての蠅を取り除きたいと彼はとても強く願っていました。シュロフ大尉はどのように使用すべきかという指示とともに、アーシュラマムにいくらかDDTを残していきました。我々は、マウニがすでにDDTの使用についての十分な指示が与えられた何らかの文書からの切り抜きを持っていることに気づきました。

45年12月6日 午後

 G.スッバ・ラオ氏がコータラムの故マウナ・スワーミについてバガヴァーンに話しました。彼はもともと1906年にバガヴァーンと共にいました。当時、彼はシヴァイヤと呼ばれていました。今日、バガヴァーンは、彼にはじめてカマンダラムを与えたのがシヴァイヤであったことを思い出しました。シヴァイヤは1年かそこらバガヴァーンと共に住み、その後コータラムに行き、1909年か1910年に再びバガヴァーンのもとに来た時、彼はココナッツのカマンダラム、バガヴァーンが使った最初のものを持ってきたようです。バガヴァーンは「タミル語」(ラマナ・ヴィジャヤム)という本の中の写真を持ち出しました。本の中にはバガヴァーンが岩に座り、他ならぬこのカマンダラムを右手に持ち、左手を左のももに置いている写真があります。この写真の中で、バガヴァーンは健康と力の絶頂期にいました。


 「angiyuru vaayumoli」という詩節(Collected Works of Ramana Maharshiの中のシュリー・アルナーチャラ・マーハートミャの第3詩節)に言及して、私はバガヴァーンにその中で言及されている洞窟は神の内部にあるのか、(もちろん、それもまた神であると言われている)山の内部にあるのか尋ねました。バガヴァーンは、「もちろん、文脈上、洞窟は山の内部にあり、洞窟の中に全ての楽しみがあるということです」と答えました。バガヴァーンは、「その詩節は、この山の内部には洞窟があり、それは光輝そのものであるか、もしくは、光で輝いていて、全ての楽しみをそこで見出しうることをあなたは信じるべきだと言います」と言い足しました。私はまた、「私はこの地がボーガ・クシェトラと呼ばれていることをどこかで読みました。それは何を意味しているのでしょう」とバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは、「ええ、そう言われています。でも、それはどういう意味ですか。このクシェトラを思うこと自体がムクティを与えることができるなら、この地が人が望むであろう他の全ての楽しみを与えることができても何の不思議がありますか」と答えました。シュリニヴァーサ・ラオ医師が、自分自身に「私は誰か」という質問をした後、静かにいるべきか、それとも、「私はこの体、五感などでない」というような答えを与え続けるべきなのか、それとも、「私は誰か」という質問を繰り返し言い続けるべきか尋ねました。

 バガヴァーン: どうしてそれがマントラであるかのように「私は誰か」を繰り返し言い続けなければいけないのですか。他の思いが生じるなら、その時、他の思いを遠ざけるために、「誰にこの思いが生じるのか」、「どこから、この思いがやって来る『私』が生じるのか」という質問が尋ねられるべきです。マントラ・ジャパムにおいてさえ、マントラを繰り返し損なうとき、つまり、他の思いが心を占拠し始めたときに、「私はマントラを止めていた」と自分に言い聞かせ、それを繰り返し始めます。全ての道における目的は、神や自ら以外の他の全ての思いを近づけないことです。

 これに関連して、バガヴァーンは再び「御名は神です」と言い、「初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、そして、言葉は神であった」と聖書を引用しました。スワーミ・ラームダースはよくナーマ・スマラナの重要性を説いていて、彼が使うはシュリー・ラム・ジャイ・ラム・ジャイ・ジャイ・ラムです。Visionの最新号で、スワーミ・ラームダースは「そが汝なり」について記していて、バガヴァーンは私にそれを参照させました。

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