2017年8月24日木曜日

ヴィータハヴヤの物語 - 一切を放棄し、トゥリーヤに自らを打ち立てた賢者

◇「山の道(Mountain Path)」、1976年4月、p116~118

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅷ


ヴィータハヴヤの物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳

ヴァーシシュタ曰く:
 おお、ラーマ!人に至高の境地を得させうる別の道、賢者ヴィータハヴヤが着実にたどった道があります。ヴィンディヤ山脈の洞窟に住む、この賢者は、ヴェーダの最初の部分に定められた宗教儀式の遂行をたいそう愛好していました。しかし、長い時間が過ぎ、これらの儀式が恐ろしいサンサーラにかかわる錯覚とぞっとするような身体的および精神的苦しみを作り出しただけであることに気づきました。彼は悲しくなりました。それで、彼は完全に行為を放棄し、ニルヴィカルパ・サマーディを修練するためにバナナの葉でできた小屋に通いました。彼は鹿皮を清潔な場所に広げ、その上に、上向きの足(裏)に(手の)指を乗せて、蓮華座で座りました。彼は徐々に外的および内的対象物から五感を引き戻し、心が様々な方向に出て行くのを止めました。彼は心の安定を保つ様々な方法について考えました。彼は心の中で考えました:

 「なんと奇妙なことか。全てのものから心を引き戻したときでさえ、波にとらわれた木の葉のように、心は何度も何度も不安定になる。それはその壺からその布へ、その布からその荷車へと行く。そのように、木々の間の猿のように、心は一つのものから別のものへと飛び移る。目や他の器官は、心のための五つの通路である。地下世界が地上世界と何の関わりも持たないのとまさしく同様に、それらは自らと異なり、それと何の関わりも持たない」。

 心に呼びかけ、彼は言いました:
 「おお、心なる、さ迷うチャールヴァーカよ!おお、どこにでも物乞いに行く、あなたよ!いたずらに嘆きながら、世界をさ迷うことなかれ。『私には意識がある』というあなたの確信は、誤りである。おお、愚か者よ!純粋な意識と心は同一ではない。それらは全く似通っていない。『私は自らである』というあなたの自己中心的でうぬぼれた概念は、まったく間違っている。自我意識の結果である、この錯覚を捨て去れ。探求しないかぎりにのみ、あなたは存在する。探求するとき、光の前の暗闇のように、あなたは存在しなくなる。あなたは過去に決して存在せず、現在も存在せず、未来も存在しない。私はあなたに別れを告げた。私は今や冷静で、穏やかである。私は幸運にも私の熱病から回復している。私は今や私の自らに、トゥリーヤの境地に住まう。生まれることなく、純粋な意識であるは、目撃者のごとくある。

 五感に向かって、彼は言いました:
 「おお、五感の集団よ!ああ!どうして無意味に自分自身を悩ませるのか。蛇を恐れる旅人のように、プッカサ(とても低いカーストの人々)を恐れるバラモンのように、純粋な意識は五感から距離を置いている。純粋な意識を忘れ、気まぐれな思いに向かうことが、悲しみを作り出すものである。自らが意識のない心の一切の概念を免れていて、体の自覚がないとき、それは純粋な意識として知られている」。

 これらの結論に達した後、ヴィータハヴヤは心を力づくで制御し、絶対的に無欲で、五感の動揺を免れたままありました。燃料を燃やし尽くした燃え盛る火のように、彼の生命力は徐々に彼の内に退きました。蓮華のつぼみが半ば開いたかのような彼のわずかに開いた目は、鼻に向けられました。彼は頭、首、胴体を真っすぐ一直線に保ちました。彼は石から切り出された彫像、絵画の中の人物像のように見えました。彼はこの状態で300年留まりましたが、この年月は半時間(ムフールタ)のように過ぎ去りました。そのうちに、彼の体は雨季の洪水によってもたらされた泥で覆われました。彼はさらに300年後に目覚めましたが、四方八方が泥にすっぽり覆われていたため、体を動かせませんでした。彼は体に気づいていましたが、全ての通路がふさがれていたため、その中には生命力の動きがありませんでした。この状況で、彼は様々な創造物を強く想像し始め、(彼の想像力の力によって)彼は実際にそれを体験しました。彼は、カイラーサ山の森の中のカダンバの木の下で賢者として100年(彼の想像の中で)生きました。彼は次に、ヴィディヤーダラとしてもう100年生き、5ユガの間、インドラとして神々に敬われて生きました。その後、彼は、1カルパ(4ユガ)の間、三日月を頭にかぶる神(つまり、シヴァ)の従者でした。彼はこの全ての人生を想像の中で体験しました。

 ヴィータハヴヤはまた、彼の全ての過去を見たいという望みを抱いていました。即座に、彼は彼の全ての以前の体を、いまだ存在していたヴィータハヴヤとして知られる体さえも見ました。彼はそれを適切に見るためにそれを立ち上がらせたいと望みました。彼は思いました。「この体は泥にすっぽり覆われている。それゆえ、私は太陽神に入り、それを立ち上がらせよう。彼の従者、ピンガラが私のためにそれを立ち上がらせるだろう」。それで、空気が取っ手が2個付いたふいごに入るように、彼は微細な体の形で太陽に入りました。全知のラヴィ(太陽神)が賢者が彼の中に入るのを見たとき、彼は従者ピンガラに適切な指示を出しました。その後、ヴィータハヴヤはピンガラの体に入り、ピンガラはヴィンディヤ山脈の洞窟に向かって進みました。彼はすぐに見事な雨雲が漂う美しいあずまやと洞窟を含む森に到着しました。彼はヴィータハヴヤの体を含む洞窟に入り、彼の爪で掘り、それをすっぽり包んだ泥を取り除き、湖から蓮華の根を引っ張り上げるのとまさしく同様に、それを引っ張り上げました。(ピンガラの内部にあった)ヴィータハヴヤの微細な体は今や彼自身の肉体に入り、ピンガラは彼の天空の住まいに戻りました。

 その後まもなく、ヴィータハヴヤは近くにある蓮華で覆われた澄んだ水の湖に進み、そこで沐浴した後、太陽神を崇拝しました。その後、彼は愛着なく以前のように生活し始めました。彼は友情、平静、知恵、満足、慈悲で満ちていました。

 彼は最上の世界を見ていましたが、もう一度、心を制御したいと望みました。彼は心の中で言いました。「五感は以前、私によってよく制御されていた。今や私が思いから得るものはこれ以上何もない。もろいつる草を引きちぎるのとまさしく同様に、私は存在および非存在についての一切の思いを絶とう。そして、後に残るものに没頭し、山の頂上のように、変わらぬままでいよう。私が目覚めているとき、私は眠っているようであり、私が眠っているとき、私は目覚めているようである。私は不変の自覚であり、善悪に無関心である。私は絶対的に純粋である。私自身をトゥリーヤの境地に確立し、今や私は心を完全に制御して留まってる」。彼は次に、6日間サマーディに入りました。彼が目覚めたとき、一瞬間、眠りに落ちていた旅人のように感じました。

 その後、かのシッダであり優れた禁欲行の人、バガヴァーン・ヴィータハヴヤは、ジーヴァンムクティの境地に長い間そこで住まいました。受容と拒絶についての全ての考えを取り除き、彼の心は欲望と無欲を超越しました。サンサーラの一切の痕跡なく、人生の終わりにヴィデーハムクティの境地を得るであろうことを彼は知っていました。かつて、蓮華座で洞窟の中で座りながら、彼は心の中で考えました:

 「おお、愛着よ!離欲せよ。おお、憎しみよ!憎しみであることをやめよ。私はあなたと長年にわたり戯れてきた。おお、世俗の楽しみよ!あなたに敬礼する!両親が子供にするように、私は何十万もの人生の間、あなたに愛撫されてきた。至高の至福なる、この聖なる境地さえ私に忘れさせた喜びに敬礼する!おお、苦しみ(ドッゥカ)よ、あなたに敬礼する!あなたによる刺し傷と促しのために、私は正しい道を探した。おお、好ましい(つまり、良い)行いよ!あなたは長年の間、私の親族であった。私の中に自らの知を作り出した後、あなたは自分自身を滅ぼした。おお、母なる欲望よ、あなたに敬礼する!あなたは独りぼっちになり、やせ、動かなくなった。私のために悲しまないように。主カーマ(愛の神)よ!あなたに対して私が犯した過ちを許したまえ。私は今や独居での静穏を楽しんでいる。私を祝福せよ。おお、善行の神よ、あなたに敬礼する!あなたは以前、私を地獄(ナラカ)から立ち上がらせ、天国(スヴァルガ)を得させた。おお、生命力よ!あなたが祝福されますように!あなたは私の生まれながらの古き友だった。しかし、私はあなたの元を離れ、去って行く」。

 このように、(あらゆるものを放棄しようと)心を決め、彼は完全に思いと欲望がなくなりました。ゆっくりとプラナヴァ(神聖な音、オーム)を発し、彼はヨーガの境地を得ました。彼は、単に想像されただけであった三世界の一切の対象物-内外の、微細な、粗大な-を拒絶しました。長々と続くオームの語末の音節の音が聞こえなくなったとき、彼は五感の一切の対象物を拒絶しました。その後、彼は上りつつある意識を妨害していた暗闇(無知)に打ち勝ちました。彼は一瞬間、突如出現した光輝を観想し、その後、それもまた拒絶し、その結果、暗闇も光もありませんでした。彼は一瞬間、彼の境地にも観想し、その後、それもまた拒絶しました。彼は次に、一瞬にして、傾向性なく出現した生得的な意識を拒絶しました。彼はパシャンティ(文字通りは、見ること)として知られる境地に達し、しばらくの間、純粋な存在として留まった後、深い眠り(スシュプティ)に似た境地へと移り、その中にしっかりと留まりました。自らを堅固にスシュプティに打ち立てた後、彼はトゥリーヤの境地へと移り、その中で至福-それを作り出す対象はありませんでしたが-を経験しました。彼は今や、存在し、かつ、存在していないかのように感じました。この境地で、彼は言葉で表現できないもの-空(くう)を信じる者たち(シューニャヴァーディン)にとっての空、ブラフマンを信じる者たちにとってのブラフマン、意識のみを信じる者たち(ヴィジニャーナヴァーディン)にとっての純粋な意識、サンキーヤ学派にとってのプルシャ、ヨーガ思想学派にとってのイーシュヴァラ、聖典シヴァ派にとってのシヴァ、時(カーラ)のみを信じる者たちにとっての時、アートマンを信じる者たちにとってのアートマン、自らを信じない者たちにとっての自らならざるもの、マーディヤミカ思想学派にとってのマーディヤマ(中)、あらゆるものを等しく扱う者たちにとっての全て、全ての聖典の結論、全ての核心(ハート)に存在し、万物であり、全てに行き渡り、万物の本質であるもの-になりました。彼は、絶対的に変化なきもの、実体験によってのみ理解されうる光輝の中の光輝になりました。彼は多でも一でもあるもの、不浄でも清浄でもあるもの、不完全でも完全でもあるものになりました。彼は誕生と死を超え、始まりも終わりもない、部分を持ちながらも部分を持たない、かの純粋な境地に打ち立てられました。彼は空(そら)よりも純粋なイーシュヴァラになりました。三万二千年間、望むままに生きた後、彼は分離した個人として存在するのを完全にやめたため、彼は再誕の可能性を失いました。

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