2017年8月12日土曜日

ジョン・A・チャンプニーズ (体に不自由のあるイギリス人)の思い出

◇「山の道(Mountain Path)」、1986年7月、p175~181

 どのように私はバガヴァーンのもとに来たのか

 ジョン・A・チャンプニーズ

 私はかなり変わった子供であったに違いありません。中等学校の時、私のおもちゃの一つが、水に浸かっているとき鮮やかな緑の染料を出していることに気づき、これはまさしく火星の精霊を呼び起こすためのものだと私は決めました。ある日、洗面所で、私はこの緑色の化合物を壁に塗り始め、私の信心の助けとなるように、紙をびりびり破いて火をつけました。黒煙の雲が学校の実験室から出ているのが目撃されると、消防隊が呼ばれました。異教の儀式に歓喜し、うっかり放火をはたらいている、この若い車いすに縛られた変人を目にすることは、校長にとって全く喜ばしいことではなかったはずです。

 10代後半の朝食後のある朝、母が健康雑誌を拾い読みしていたのを私は覚えています。ヨーガの長所を褒めたたえるディスプレー広告が私の注意を引きました。母にその言葉の意味をたずねると、それは体の姿勢の体系-実際、インドの体操の一種-であり、肉体的健康と長寿に資することになっていると彼女は答えました。引き続き彼女は、私の深刻な身体的障害のため、そのテーマへの私の興味は全く不適当であると言い足しました。彼女は正しく、確かにその広告は身体的幸福(健康)を大いに強調していました。

 しかしながら、私が感じていたものは「興味」とは言い難いものでした。なぜなら、何らかの理由から、ヨーガというまさにその言葉は私の胸の中に火を燃え上がらせたからです。食事を済ませることもなく、松葉づえを身に着け、よたよた歩いて外に出て、特別に改造した車まで行き、すぐに地元の貸し出し図書館まで-私自身や他の誰の好みにとってもあまりに速い速度で-運転し、ヨーガに関する本を5冊取り寄せました。

 翌週かそこらの間、私は食卓の前に座り、手を組んで親指をくるくる回しながら、本が到着するのを待っていました。この落ち着かない様子は母をいらだたせ、その訓練はボール一杯分のすりおろしたニンジンをむしゃむしゃ食べる間に逆立ちするような奇異な癖-ウサギによってはるかに効率よく行われうると彼女が正しくも主張した習慣-を身につける結果になるだけだという旨の証拠を(彼女は)提供し続けました。それよりも重要なものがヨーガにはあるはずだという立場を私は熱情的に継続し、私の身体的障害に起因する痛みや不快から解放する神秘的な螺旋や液状の恍惚状態を夢見ていました。

 ある晩、口論を終わらせんとして、父は卓越した良識でもって、その言葉が実際に何を意味しているか知るために辞書を持ち出してはどうかと提案しました。私は乗り気でこの助言に素早く従い、見出し語を見つけました : "yog'a, n. 信奉者の魂と遍在する靈との再結合をもたらすことを目的としたヒンドゥー教の哲学的瞑想および禁欲主義の体系。"

 私が得ていたかもしれない個人的勝利の利己的な感覚は、それが私に人生には確かに目的があるということを証明したという事実によって素早く縮こまりました。本が届いたとき、私は即座にむさぼり読みましたが、定義に関して「正しい」ことによる私の勝利はピュロス王のそれ(割に合わない勝利)
でした。なぜなら、それら(の本)は全てヨーガの目的がサマーディの至福であることに合意していましたが、その目的がニンジンをムシャムシャ食べることや体をもつれ合わせようとすること-重度の身体障害を持つ誰かさんには不可能なこと-なしには得られないということを規定する点においても同意見だったからです。

 絶望の時期に、私のヨーガへの情熱が身体的健康の強調によってどのように挫(くじ)かれつつあるのか図書館長に話し、精神的および靈的な道のりの輪郭を示す何か読むべきもの-端的に言えば、ハンディキャップのある人を分け隔てすることのない実現の方法-を私のために探してもらえるか彼女に尋ねました。彼女は自分が調べられるものは調べましょうと約束し、驚くほど短期間の内に、私への本が到着したという伝言が私の家に伝えられました。

 私はオースチン・ミニに乗って図書館へと馳せ参じ、図書館員は私にアーサー・オズボーンによるRamana Maharshi and the Path of Self-Knowledgeを差し出しました。習慣どおり、私は素早く遊び紙を探し、読みました-「知恵と理解のヨーガ(の修練)は・・・・煩雑な運動や無理して体をもつれさせる必要は・・・・ありません』。それはあたかも私の内部に閉じ込められた蝶が今まさに解き放たれたかのようでした!

 私は本を読みながら、私の魂の前庭で気分を浮き立たせる恋愛関係が展開されつつあるような感覚を覚えました。私の注意はアルナーチャラに釘づけにされ、奇妙にも本のページ自体がティルヴァンナーマライの香り、色、雰囲気を放っていました。別世界の使命に乗り出すためにティルチュリという村を離れた若者について読みました。私をまっすぐに見通し、私をのぞき込み、私をからかい、私と戯れる、この非常に美しい少年の写真を見つめながら、私の心臓が鋭い音をたてるように感じました。そして、私が年を取った年配の男性としてのマハルシの写真を熟視したとき、彼の慈悲が私の悪癖と弱点を理解し、一瞥でそれらを覆い隠したことを私は知りました。その後、その顔は私の全存在に浸透し、バガヴァーンは私の心を溶かしました。

 「マハーサマーディ」の章を読むや否や、両親が気付くといけないから、私は涙が顔から流れ落ちないようにしなければいけませんでしたが、両目をうるませないようにすることはできず、その抑圧の試みのせいでまぶたの背後がチクチク痛むのは、無数の針や星で刺されるようでした。

 その本の総合的な影響は、呆然とした方向感覚の喪失のそれでした。なぜなら、私の家庭生活なる小さな宇宙は、今やあまり重要でないように思えたからです-事実、それはほとんど重要でないように思えました。肝心であったのは、この信頼できる(credible)人-ラマナ・マハルシ-が、ニルヴァーナ、すなわち、自らの実現という信じがたい(incredible)境地を達成したこと、ごく最近まで我々の間で生活していたことでした。

 その頃、私は鮮明な夢を見ました。夢の中、砂砂漠で、私はバガヴァーンを前にして足を組んで座っていました。その後、私の自我が身体的に完全な体を帯びたことに気づきましたが、ほとんど全ての夢で私のスクシューマ・シャーリアは目覚めている時の体と同様にハンディキャップがあるように見えました。いつものように、バガヴァーンは沈黙していましたが、あまりにも輝きを放っていたために空気そのものが黄金のオーラをまとっていました。3人目の男が私の右に足を組んで座っており、しばらく後、彼は口を開き、バガヴァーンに質問しましたが、バガヴァーンは返答を差し控えました。数分経過後、その男は再び質問し、今回はその声に切迫した様子がありました。そのうちにバガヴァーンの唇から返答が発されましたが、彼はとても静かに話したので、彼が言っていたことを私は聞き取れませんでした。その男は文句を言い始め、まもなく彼の話し方は口汚くなりました。次の瞬間、彼はバガヴァーンから顔をそむけ、あまりに不機嫌に立ち去ったために彼の足は土煙と砂ぼこりを蹴り上げました。土の一部が私にかかりましたが、その大部分はバガヴァーンにかかり、彼は顔を私の方向に向け、静かではあるがとても強調して言いました。「あなたの怒りよりも、むしろ、あなたの愛をもらいたいですね」。

 私の即座の反応は驚愕のそれでした。「私はあなたに対して怒ったことは決してありません。あなたを罵ったのは別の人です-私でありません!」と言おうと試みましたが、その言葉は喉から出てこようとせず、この息の詰まる感覚は夢が消えつつ、終わりつつあることを意味するのを私は知っていました。私はまた知っていました-虚構の存在なる、この(夢の)世界の崩壊が、私の無言の訴えへの答えは私自身で解かなければならないであろう何かであることを意味することを。

 この夢は私にティルヴァンナーマライのラマナーシュラマムに手紙を書かせました。自由にコミュニティーに滞在してよいということを手紙でガネーサンから聞いたとき、私の熱意は高まり、インドに行こうとする私の決意は増しました。しかしながら、私はアーシュラムに私の身体的障害を知らせることを怠っており、私の家族は、公正を期してそれについて絶対伝えるべきだと指摘しました。それで私は再びガネーシュに手紙を書き、彼に完全に状況を説明しました。しかし、私の心が私が得るかもしれない返答への悪い予感で一杯であったことを認めざるをえません。しばらくして、手紙がインドから舞い戻ってきました。それは私が恐れていた答えを含んでいました。それは極めて思いやり深い手紙でしたが、私が意図した旅行を思いとどまらせようとしていました。シュリー・バガヴァーンの恩寵は時間と空間を超越すること、彼の愛には際限がないこと、そして、彼のサニッディ、彼の存在の直接的な体験を得るためには、ただ彼について瞑想し、考しなければならないだけであるとそれは指摘していました。もちろん、アーシュラム当局は全くもって正しかったのです。シュリー・バガヴァーンは、ティルヴァンナーマライにその身で旅することができない人々にとって恵み深さそのものです。実際、時折、彼はそこに行くことができない人々によりいっそう恵み深くさえあると大胆にも付け加えさせていただきたいと思います。しかし、遠い昔である1970年に、二十(はたち)の未熟な若者として、私はそのように見ることはできませんでした。なぜなら、夢にバガヴァーンが現れたことは、まい進し、付き添いなしで旅をする力を私に与えたからです。しかし、これは行うには非常に愚かなことであったかもしれないことを今や私は分かっています。

 私は何が起ころうとも到着する予定であることをアーシュラムに知らせ、ルシア・オズボーン夫人がアーシュラム近くの彼女の家で私の世話をすることを親切にも了承しました。それは、(夫の)アーサー(・オズボーン)が亡くなったばかりであることを考慮すれば、彼女の側の極めて思いやりのある行為でした。

 ティルヴァンナーマライへの旅は行われ、それはとても美しく、興味深いものでしたが、私は根本的な間違いをしていました。若いヴェンカタラーマンが、一気に自らの実現を得た後、16の年でアルナーチャラヘ赴いたために、同じことが私にも起こるだろうと私は自然に思い込んでいました。私はアーサーの本に深く心動かされていて、バガヴァーンは夢の中で私のもとに現れました。今やただ一つのことだけが残っていました-私はティルヴァンナーマライに行き、私と車いすが旧講堂に入る手助けを誰かがしてくれます。次に、私は瞑想し、ラマナの顔つきを見るとすぐに彼はしかるべく私を手ほどきし、その後、私に完全な自らの実現が与えられ、ニルヴァーナの至福に浸ります。おしまい、おしまい。

 しかしながら、私は確かにアルナーチャラに行き、彼らは確かに旧講堂に(そこのかなりやっかいな踏み段にもかかわらず)私を入れてくれましたが、バガヴァーンは私に手ほどきせず、やすやすと実現を私に手渡しもしませんでした。私は希少疾患に苦しんでいるときに、専門家に会うために地球を半周旅する患者のように感じました-あいにく彼がついに待合室に入ると、医者はほんの少しもその症例に関心をがないようなのです。

 私はティルヴァンナーマライを愛していましたが、バガヴァーンからサークシャートカーラムを得なかったために、憂鬱の波が私を圧倒したものでした。実際、最も優れた靈的体験は、イングランドの頃にあったのです。

 後に私が発見したのは、実のところ、バガヴァーンはその専門の医者であり、悪い時は彼がその気遣いを引っ込めたことを意味しないということです。患者が治療のために医者に行くとき、彼はその患者に多大な痛み苦しみを引き起こす養生法を課すかもしれません。しかし、彼がその苦しみ、苦悩を負わせるとき、彼は患者自身のためにそれを行っています。なぜなら、長い目で見れば、それが最良の治療形態であり、最後にはそれが患者を元気にするであろうことを彼は知っているからです。

 私が1970年にインドを離れたとき、私は「正しく理解していなかったのだ」と感じていました。そして、自らの実現は最もシンプルなものではあるが、達成するのは最も難しいものであることも私はもう分かっていました。私は大学での生活を始めました。そして、バガヴァーンの教えは自我を小さくすることを目指していますが、大学の授業がそれを大きくすることを直接的に推奨していることに気づき、幾分ぞっとしました。他の自我とのあまり穏やかでない口論と論争の技術のために、それは手入れされ、水を与えられ、耕され、愛情深く整えられました。バガヴァーンの恵み深い写真は私の部屋に留まっていました。学生たちの意見は時に思いやりのあるものでしたが、残念ながら大抵、彼らは私の深く根付いた信念をからかい、それを原始的と呼びました。挙句の果てに、母が病気になり始めました。

 卒業すると、ぱちんこで放たれた石のように私は家から放り出されました。私は仕事と生活する場所を見つけなければなりませんでした。運命がこのように重度障害のある人を扱うとき、人生はとても、とても厳しいものですが、最も辛く、最も悲しいことは、私がバガヴァーンを手放したことでした。

 三年の「独立した生活」の後、一本の濡れたひものように私はかみ砕かれ、吐き出されているように感じていました。76年の秋、母が自殺し、私は自動車事故で足を骨折しました。全ては三日の間の内でした。それから回復した後、私はケンブリッジ大学出版局で専門の校正係として働きました。しかしながら、障害に加えての2年間のこの常勤の仕事と一人での生活は、私の健康を損ない始めました。私はきちんと食事をとれず、骸骨のように見え始めました。

 1979年のある日、私はある男に会い、彼は私が一人で悪戦苦闘しているのを見たくないと言い、私の面倒を見ることができないか私に尋ねました。彼が私と同居するようになり、私の物理的な負担を手助けしてくれた、その日から、私の健康は改善し始めました。

 そのデイビッドは強硬な無神論者であり、辛辣な反キリスト主義者であり、そのため控えめに言って我々はいつも見解が一致するわけではなかったと言わなければなりません。しかし、あなた自身の家をはじめに整頓せよ、というバガヴァーンの言明に私が従っていたなら、物事は我々両者にとってずっと良いものになっていたでしょう。

 1984年2月の終わりごろのある日、私は落胆の真っただ中に陥って、デイヴィッドが食料雑貨類をもって帰ってくるのを待ちながら、ケンブリッジのミル・ロードで車の中に座っていました。私は彼が入った店を見上げると、ARJUNA WHOLEFOODSという言葉を読みました。そして、霧に包まれた歳月と絶望の瘴気を通じて、私は次の言葉を聞きました。「ヨーガの目的、クリシュナがいる時はいつでも、弓に熟達するアルジュナがいる時はいつでも、美が、勝利が、喜びが、全ての正義がある」(第18章78節)。そして、私は主クリシュナが私に命綱を投げているのを感じました。我々が家に帰ると、飢えた犬が食べ物に覆いかぶさるように、私はギーターに覆いかぶさりました。そして、(全)18章が終ったとき、私は声をあげて泣きました。私はバガヴァーンについて改めて読みたいと思いましたが、アーシュラムの本を開くことさえできませんでした。なぜなら、私はバガヴァーンを手放していて、彼が私に対して怒り、非難していると思っていたからです。もちろん、当時、私はバガヴァーンとクリシュナの間に本質的な違いがないことを理解していませんでした。

 ついに、私は勇気を奮い起こし、Ramana Maharshi and the Path of Self-Knowledgeを開き、それを再度読むにつれ、同じ喜びと涙が私の存在に押し寄せ、同じ切望が、過ぎ去りし日々に私の魂を包んでいた、かのまったく同じ熱情が私を圧倒しました。私は全てのアーシュラムの本を読み、それらを徹底的に吟味し、守銭奴がその金銭を守るようにそれらを守りました。

 私のサーダナの最初、バガヴァーンがなかなか私に体験を与えなかったとすれば、彼は今その埋め合わせをしていました。たびたび、私は彼の美しい存在と一つでいたいと切望しました。しかし、私のサーダナは方向性を欠き、全く率直に言って、瞑想は相変わらず困難でした。

 1984年6月12日の夕方、強情で手に負えない心と一日中戦い、疲れ切って、ベッドに横たわっていました。その後、一瞬、焼けつくような不協和音が私の頭の中を荒れ狂っていましたが、次の瞬間には、全てのものが完璧に穏やかに落ち着きました。

 この静寂の深みから、私は歌を聞きました。とても美しい歌であり、それは私の心を鷲掴みにし、私に泣きたいと、それと同時に、笑いたいと思わせました。私は音量を上げるためにラジオのほうを見ましたが、ラジオはスイッチが切れていました。しかし今や、音量を上げる必要はありませんでした。なぜなら、壁自体が歌い始めたからです。私は開いているフランス窓に視線を向け、あたかも夜気が、星々が呼んだかように、耳を傾けました。

オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム
オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ ア-ウ-ム
オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム

 私にとって、この恍惚の踊りに加わらないことは、火に燃えないように頼むようなものだったでしょう。そして、ナタラージャとしてバガヴァーンが長年待ち焦がれていた手ほどきを私に与えたとき、喜びと驚嘆と共に、私は魂を歌に合わせ、その存在にうち震えました。私は歌を歌って私自身を寝かしつけ、翌朝、バガヴァーンの前で十字を切り、心の中で彼にそのマントラを伝えました。私は真夜中の恋人を得たばかりの恥ずかしがりやの少女のように感じました。この気恥ずかしさの感情は本当に馬鹿げたものでした。なぜなら、これはシュリー・バガヴァーンが私に授けたギートーパデーシャ、教えの歌だったからです。私はとても値しないと感じ、感謝の念から、私のサーダナの助けになるようにノート、the Diary of a Devoteeをつけ始めました。

 私はシュリー・バガヴァーンが人々を確かに助けることを示したいと思いましたが、私とは違い、彼はとても辛抱強く、その人が必要とし、それを受け取る用意があるときにのみ助けます。そしてまた、バガヴァーンからの手ほどきや直接的な手助けは、人生の全ての問題が終わりを迎えることを意味しないということを私は理解しました。事実、サーダカの人生は、しばしば、困難で汚されています。かつて、ある人が冗談交じりに、「SRI RAMANA MAHARSHI」は「I AM A HARSH MAN, SIRRA!(君よ、私は厳しい人である!)」のアナグラムであると私に指摘し、冗談の中に多くの真実があると私は答えました。実に、シュリー・バガヴァーンがその子供たちを真っすぐな狭い道へと導き、彼らに良いことだけでなく悪いことも受け入れるように教えるとき、彼はとても厳しくなりえます。けれども、仮に我々が時に人生について不平を言わないならば、我々は人間ではないでしょう。それゆえ、間違いなくサーダカではないでしょう。

 1985年の秋、私の世話をする私の忠実な付添人であり仲間のデイヴィッドを連れて、ティルヴァンナーマライに再び旅しました。彼はアーシュラムでの生活をこれっぽっちも楽しみにしていませんでした。私は彼の見解を理解し、彼が私の身体的要求を手助けするために、そして、それが世界で何よりも私がしてほしいことであると彼が知っているために私に付き添っていることをよく分かっていました。

 滞在二日目の夜、数分間の黙とうのために、彼は私を新講堂に押し上げました。私がじっと見ていたとき、彼がバガヴァーンの肖像画を見上げているのを目にしました。その時、驚いたことに、彼の目から涙が流れ出ていることに私は気づきました。そして、その後、驚きは驚嘆へと変わりました。デイヴィッドが、無神論者で反キリスト主義のデイヴィッドが、無意識的な服従の行為として前のめりに倒れたのです!人々の心を盗み、搾り上げる方を見て、私もまた泣いていることに気づきました。

 ガネーシュが北インドの旅から戻った時、15年の長い別離の後、我々は両手を広げて相会い、大いに心喜ばせて思い出を語り、いつものように師について話しました。

 デイヴィッドと私はアーシュラム向かいの訪問客用の立派な住居に宿泊し、食堂で食事をとることは我々にとって大きな喜びでした。我々の胃は体質的にやや弱く、我々に面倒をかけていましたが、ティルヴァンナーマライにいて、バガヴァーンのプラサードであるアーシュラムの食べ物をとっている間、我々が病気に苦しまなかったのは奇妙なことです。アーシュラムのスタッフは親切そのものであり、我々が欲しいものがあれば何でも、ただ頼みさえすればよく、我々の頼みは聞き入れられました。

 私が経験したThe Mountain Pathの編集長、シュリー・V・ガネーサンとの愛の絆は、親愛の情の響きを私の存在の核心の内にとても深く触れさせたため、折に触れ、私である(I AM)万物のまさにその本質が、一言も話さずに踊るアルナーチャラの喜びに打ち震え、共鳴しました。どうして彼がそんなにも私に親切だったのか私は理解できませんでしたし、依然、私はそれを理解できていません。そんな具合に、バガヴァーンへの私の愛は毎分ごとに増していますが、依然、私が彼を理解していないことを私はまた分かっています。どうして私に(理解)できるでしょうか。なぜなら、理解することは、対象化すること、測ること、制限することであるからです。ティーカップの中にある水が大海の広大さを測ることを一体どうして望めるでしょうか。

 私が知る全ては、私の中には邪悪なものがいまだ多くあり、私は悪いこと行いますが、何かの理由でバガヴァーンは今や私を愛したいと決意したということです。このサーダナのようなものによって、彼は私の人生を裏返し、上下逆さまにし、前後逆にしました。彼は私の心を拾い上げ、あたかも濡れたスポンジのように、それから涙を絞り出しました。しかし、涙と信愛を通じて、全世界の物質的盛衰を超越し、包摂する、全く異なった完全に澄み切った現実を私は垣間見ました。人生が進むにつれ、私は目を瞑(つむ)り、決定をますますバガヴァーンに任せています。なぜなら、彼は私のグルであり、私が称賛する方、私が非難する方、私の苦しみであり喜び、私のプルショーッタマ、私を助けるのに最もふさわしい人であるからです。
 

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