2014年12月7日日曜日

委ねの真意 - 主に『Talks~』と『Day by Day~』からの引用

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年1月 p4~6

バガヴァーン自身の言葉による委ねの真意
シュリー・バガヴァーンはしばしば委ねを効果的な方法だと述べましたが、彼はその用語の含意についての一般的な誤解を取り除くように気を付けました。彼自身の言葉で以下に複写される彼の教えは、『バガヴァッド・ギーター』におけるの保証-の恩寵により、汝は至高の安らぎ、永遠の住まいを得る(18‐62)-の真の意義を明らかにします。
  人は個人が世界の重荷を担っているという誤った思い込みを取り除くべきである:
 「が世界の重荷を担っている。それを担っていると思う、偽の自我は、(寺院のてっぺんで)それを支えているように見える、歯を食いしばる彫像のようである。(鉄道)客車の中で旅する人が、彼の荷物を車両の中に置かずに、頭の上に乗せ、不快を感じるならば、それは一体誰の過ちなのか。
 -「40詩節への補遺」、第17詩節
バガヴァーン: あなたがあなた自身を高き力に委ねるならば、万事うまくいきます。その力があなたのことを最後まで面倒見ます。ただあなたが「私は行為の主体である」と思うかぎりは、あなたはあなたの行為の結果を受け取らざるを得ません。一方、あなたがあなた自身を委ね、あなた個人を高き力の道具でしかないと認めるなら、その力が行為の結果と共にあなたのことを引き受けます。あなたはもはやそれらに影響されず、務めは妨げなく進み続けます。あなたがその力を認めても、認めなくても、物事のあり方は変わりません。(物の)見かたが変わるだけです。あなたが列車で旅行している時、どうしてあなたの荷物を頭の上で支えなければならないのですか。あなたの荷物が頭の上にあっても、列車の床の上にあっても、列車はあなたとあなたの荷物を運びます。それを頭の上に置くことによって、あなたは列車の負担を減らしているわけではなく、ただあなた自身に不必要に負担をかけているだけです。世界における個々人の持つ行為者の感覚についても同様です。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 478

 完全な委ねは、解放の別名である:
サイード博士: 全面的、または、完全な委ねは、自分の中に解放やへの望みさえも残すべきでないということを求めますか。
バガヴァーン: 完全な委ねは、あなたがあなた自身の望みをまるで持たないこと、の御心のみがあなたの望みであり、あなたがあなた自身の望みをまるで持たないということを求めます。
サイード博士: 今や私はその点について満足したので、私が委ねを達成しうるための手段とは何であるのか知りたいと思います。
バガヴァーン: 二つの道があります。一つは「私」の源を調べ、その源に溶け込むことです。もう一つは、「私は独りでは無力だ。のみが全能であり、を完全に頼りとする以外、私には他に安全は存在しない」という感情であり、そうして、のみが存在し、自我は重要でないという確信を徐々に育てます。両方の方法は、同じ目的に通じます。完全な委ねは、ジニャーナ、もしくは、解放の別名です。
-『Day by Day with Bhagavan』、p. 176

 委ねはジニャーナと異ならない:
質問3: 私は委ねのほうが容易であると感じます。その道を採用したいと思います。
バガヴァーン: どの道を通ってあなたが行っても、一者の中にあなた自身を失わねばなりません。委ねは、あなたが「御身は全てである」や「御身の御心が果たされんことを」という段階に達する時にのみ完全です。その境地はジニャーナと異なりません。ソハム(「私はである」)には、ドゥヴァイタ(ニ元性)が存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。実際には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは容易に見えます。なぜなら、人々がいったん口で「私は委ねます」と言い、彼らの重荷をへ置くなら、彼らは自由になり、好きなことができると彼らは想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後にあなたは好き嫌いをまるで持てず、の御心が取って代わり、あなたの意思は完全に存在しなくならねばなりません。そのような自我の死は、ジニャーナと何ら異なりません。ですから、どの道をあなたが行こうとも、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性へ行かねばなりません。
-『Day by Day with Bhagavan』、p. 32

 真の委ねにおいて、人はの御心に従わねばならない:
シュリー・ラーガヴィア: 我々は委ねます。しかし、いまだ助けはありません。
バガヴァーン: ええ。あなたが委ねたのなら、あなたはの御心に従うことができなければならず、あなたの気にいらないかもしれないことについて不平を言ってはいけません。物事は見かけの上で見られるものとは異なっていると分かるかもしれません。苦悩は、の信仰に人をしばしば導きます。
シュリー・ラーガヴァイア: しかし、我々は世俗的です。妻、子供たち、友人、親族がいます。彼らの存在を無視し、我々の中にいくらか少しの人格を保つことなく、の御心に身を任せることはできません。
バガヴァーン: それは、あなたによって明言されたように、あなたが委ねていないということを意味します。あなたはのみを信頼しなければなりません。
-『Talks with Sri Maharshi Maharshi』、p. 49
マハルシ: が現れても消え去っても、に委ね、の御心に従いなさい。の望みを待ち受けなさい。あなたがにあなたが気にいるように行うよう頼むなら、それは委ねではなく、への命令です。あなたはをあなたに従わせることはできませんし、あなたが委ねたと思わせることもできません。が何が最善なのか、いつどのようにそれを行うべきか知っています。全てのことをに任せなさい。重荷はのものです。あなたにはもはや何の心配もありません。全ての心配はのものです。委ねとは、そういうものです。
ー『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 425

 人は自らの存在の根源の原因に身を委ねるべきである:
マハルシ: 人が自分自身を委ねるなら、それで十分です。委ねとは、自らの存在の根源の原因へ身を委ねることです。そのような源があなたの外側の何らかのであると想像することで、思い違いをしないように。自らの源は、自分自身の内にあります。それに身を委ねなさい。あなたがあなた自身がそれの外にいると想像するため、あなたは「どこにその源があるのか」という質問を提起します。砂糖はそれ自体の甘さを味わえず、味わう人がそれを味わい、楽しまねばならないということを主張する人もいます。同様に、個人は至高者になりえず、その境地の至福を享受することはできない。それゆえ、喜びが生じるためには、一方では個人性が、他方では神性が保持されねばならない!は砂糖のように意識がありませんか。いったいどのようにして、自分自身を委ね、それでもなお、至高の喜びのために個人性を保つことができるのでしょうか。さらに、彼らはまた、人はの領域に達し、そこに留まり、至高の存在に奉仕すると言います。「奉仕」という言葉の響きは、を欺けますか。は知ってはいませんか。はそれらの人々の奉仕を待っていますか。純粋な意識-は代わりに尋ねはしないでしょうか-「大胆にも私に奉仕すると言う、私から離れたあなたとは誰ですか』。 
 人が原初の根源から離れていると言うこと、それ自体、自惚れです。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、pp. 175-6

 部分的な委ねは、完全な委ねに通じる:
信奉者: 委ねは不可能です。
マハルシ:ええ。はじめは、完全な委ねは不可能です。部分的な委ねは、間違いなく、みなにとって可能です。やがては、それは完全な委ねに通じます。さて、委ねが不可能なら、何ができますか。心の安らぎがありません。それをもたらすには、あなたは無力です。それは委ねによってのみ、なしえます。
信奉者:部分的な委ね-なるほど-それは運命を取り消せますか。
マハルシ: ええ、そうです!できます。
信奉者: 運命は過去のカルマによるのではありませんか。
マハルシ: 人がに委ねるなら、がその面倒を見ます。
信奉者: それがの摂理であるなら、いかにしてがそれを取り消すのでしょうか。
マハルシ: 全てはの中にのみあります。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 195
信奉者: 委ねは努力の後に訪れます。
マハルシ: ええ、それはやがて完全になります。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 405

 委ねは、実現(悟り)への二つの主要な手段の内の一つである:
信奉者: 私は私の自らを実現するにはあまりに弱すぎます。
マハルシ: それなら、あなた自身を無条件で委ねなさい。そうすれば、高き力が自らを啓示します。
信奉者: 無条件の委ねとは何ですか。
マハルシ: 人が自分自身を委ねるなら、質問を尋ねる、もしくは、考えに入れられるべき人は存在しません。「私」という根本の思いにつかまることによって思いが排除されるか、高き力に自分自身を無条件に委ねるか。実現には、その二つの道しかありません。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi]』、pp. 284-5

 委ねた者には矛盾は生じない:
信奉者: (祝福のために)おそばに行ってもよろしいでしょうか。
マハルシ: そのような疑問があなたの中に起こるべきではありません。それはあなたの委ねの声明と矛盾します。
信奉者: あなたはジニャーナ・ヨーガについて話すようですが。
マハルシ: ええ、そうです。
信奉者: しかし、委ねはバクティ・ヨーガではないですか。
マハルシ: 両者は同じものです。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi]』、p. 405

 委ねた者には質問は起こらない:
信奉者: 私は3か月間待ち、助けがやって来るのか確かめます。さて、私はその保証を得られますか。
マハルシ: それは委ねた者によって尋ねられたことですか。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 406
信奉者: 委ねた後の心の流れはどうなりますか。
マハルシ: 委ねた心がその質問を提起してるのですか。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 334

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