2013年12月10日火曜日

トゥリーヤ(第四の状態)、儀式の必要性、ジニャーナと他者の苦しみ

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p92~97

 多少訳を変更して、読みやすいように対話形式にしています。(文:shiba)

46年1月5日 午後 

 私が講堂に入った時、バガヴァーンは何かの質問に答えていました。

バガヴァーン:
 夢が短く、目覚めが長いという以外、夢と目覚めの状態の間に相違はありません。共に心の結果です。目覚めの状態が長いので、我々はそれが我々の真の境地であると想像します。しかし、実際、我々の真の境地とはトゥリーヤ、または、第四の状態と時に呼ばれるものであり、いつもあるがままにあり、三つのアヴァスター(*1)、すなわち、目覚め、夢、眠りについて何も知りません。我々がそれら三つをアヴァスターと呼ぶので、我々は第四の状態もまたトゥリーヤ・アヴァスターと呼びます。しかし、それはアヴァスターではなく、自らという真の自然な境地です。これが実現される時、我々はそれがトゥリーヤでも、第四の状態でもなく-なぜなら、第四の状態は相対的なものに過ぎません-、トゥリーヤーティータ、第四の状態と呼ばれる超越的な境地であると知ります。

訪問者:
 聖職者は様々な儀式やプージャー(*2)を定め、人々は断食期間や祭日などにそれらを適切に行わなければ、罪が生じるなどと言われます。そのような儀式や儀式的崇拝を行う必要がありますか。

バガヴァーン:
 ええ。そのような全ての儀式もまた必要です。それはあなたには必要ではないかもしれません。しかし、そのことは、それが誰にとっても必要ではなく、全く役に立たないということを意味しません。幼児教室の生徒に必要なものは、大学院生には必要ありません。しかし、大学院生さえも幼児教室で彼が習ったまさにそのアルファベットを使わなければなりません。今や、彼はアルファベットの使い方と意義を十分に知っています。

訪問者:
 私はオームカーラ(*3)・プージャーをします。私はオーム・ラムと言います。それは良いことですか。

バガヴァーン:
 ええ。どのようなプージャーも良いのです。オーム・ラムや他のどのような名前も役に立ちます。肝心なことは、オーム、ラム、神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることです。全てのマントラ、ジャパはその手助けをします。例えば、ラムのジャパをする人は、ラーマ・マヤ(*4)になります。崇拝する者が、やがては崇拝されるものになります。その時になってはじめて、彼は彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を知ります。

 我々の本質はムクティです。しかし、我々は我々が束縛されていると想像していて、我々がその間中ずっと自由であるにもかかわらず、自由になるために様々な骨の折れる試みを行っています。これは我々がその段階に達した時にのみ理解されます。我々は、我々がいつも我々であったもの、そして、(今も)我々であるものを得ようと必死に試みていたことに驚きます。

 一つの例によって、これが分かりやすくなるでしょう。ある人がこの講堂で眠りに落ちます。彼は世界旅行に出かけた夢を見て、山や谷、森や国、砂漠や海を放浪し、様々な大陸を越え、長い年月の難儀な骨の折れる旅の後、この国に戻り、ティルヴァンナーマライに到着し、アーシュラムに入り、講堂に歩み入ります。ちょうどその時、彼は目を覚まし、彼が少しも動いておらず、彼が横たわった場所で寝ていたことに気づきます。彼は大変な努力の後でこの講堂に帰ってきたわけではなく、講堂に今も、そして、いつもいました。それはまさにそのようなのです。「自由であるのに、どうして我々は我々が束縛されていると想像するのですか」と問われるなら、私は、「講堂にいるのに、どうしてあなたは自分が山や谷、砂漠や海を越え、世界を冒険していると想像したのですか。それはすべて心、もしくは、マーヤーです」と答えます。

シュリー・オウロビンドー・アーシュラムから来たという訪問客:
 しかし、我々は世界の中で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な現実です。それは彼にとってとても現実的です。我々はそれを夢であると呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。

バガヴァーン:
 ジニャーナや現実(*5)の視点からは、あなたが言う苦しみは確かに夢です。それは世界と同じく夢であり、苦しみは世界のごくわずかの部分です。夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのに気づきます。あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、あなたが空腹で苦しんでいると気付いた他の人に食事を与えます。夢が続く限り、その一切の苦しみは非常に現実的です。あなたが今、世界で見る苦しみを現実的であると思うのと同じです。目覚めて初めて、あなたは夢の中の苦しみが現実でないと発見します。あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中で激しく長時間働き、疲れて空腹で、たくさん食べたいと思います。その時、あなたは目覚め、お腹一杯でベッドから動いていないことに気付きます。

 しかし、今述べたこと全ては、あなたが夢にいる間に、あなたがそこで感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞ってもいいと言わんとしているのではありません。夢の空腹は夢の食べ物で満たされねばなりません。あなたがとてもお腹が減っていると夢で気付いた仲間には、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混ぜることはできません。

 あなたがジニャーナの境地に達するまで、従って、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることによって社会的な奉仕をしなければなりません。しかし、その時でさえ、我々が教わっているように、アハンカーラ(*6)なしに、つまり「私が行為者である」という実感なしに、「私は主(神)の道具である」と感じながらそれを行うべきです。

 同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼は助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思いあがってはいけません。そうではなく、あなたはその人の内にいる神を崇拝するための手段として助けなければいけません。そのような奉仕すべては自らのためでもあり、他の誰のためでもありません。あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身のみを助けているのです。

 ラーマチャンドラ・アイヤルがこれに関連して、『エイブラハム・リンカーンの古典的な例があります。彼は豚が溝から出るのを助け、その過程で彼自身と彼の服を汚してしまいました。彼がどうしてそんなにも労を費やしたのか尋ねられた時、彼は、「私は豚の問題を終わらせるためというよりもむしろ、気の毒な生き物が溝から出ようともがいているのを見るという自分自身の苦しみを終わらせるためにそれをしました」と答えました』と言いました。

ジョーシー氏:
 私は世帯主です。私には精神的成長の妨げになる扶養家族と障害となるものがあります。私はどうすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 その扶養家族と障害となるものがあなたの外にあるのか、それらがあなたの内に存在するのか確かめなさい。

ジョーシー氏:
 私は初心者です。私はどのように始めるべきでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたは今どこにいますか。どこに目的地がありますか。歩まれねばならない距離はどれほどですか。自らは到達されるべきどこか遠くにありません。あなたはいつもそれです。あなたはただ、あなたの習慣、あなた自身を自らでないものと同一視する長年の習慣をやめさえすればいいのです。一切の努力はそのためだけにあります。心を外に向けることにより、あなたは世界、自らでないものを見つづけています。あなたが心を内に向けるなら、あなたは自らを見ます。

 この教えの後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。バガヴァーンはすぐに、「母はこの歌をたびたび歌っていました。これは私が今話してきたまさにそのことを繰り返しています」と言いました。そこで直ちに、私はバガヴァーンに誰がその歌の作者なのか尋ねました。

 彼は、「アヴダイ・アンマル(*7)です。彼女は非常に多くの歌を作りました。それらはその地域(マドゥライや近辺の他県)では非常に人気があります。それらのいくつかは出版されています。しかし、とても多くが出版されないままです。それらは口頭で世代から世代へ、主に女性を通じて受け継がれています。彼女達は他の人から歌を聞き、すでに歌を知っている人たちと一緒に歌い、歌を暗記します」と言いました。私は今、バガヴァーンの母親が読み書きができなかったことを知りました。バガヴァーンは私に、「それにも関わらず、彼女はとてもたくさんの歌を暗記していました」と言いました。以下に、その歌とその意味が記されます。

どうして常にある自ら
自覚かつ至福が
どうしてそれが今まで、あたかも
これを忘れていたかのように振る舞ったのか
不可思議の中の不可思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私のかわいい人
私へのあなたの恐れ!
心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に?
大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗がりの波が深淵なる至福の海の中に?
言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもなく、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、性質もない
分離もなく、それゆえ、恐れもない
おお、不可思議の中の不可思議、夢の中のように見える物事!
内と外、高い低い、十方向すべては
無限に広大な光の中に失われた
壊れない、支えられていない、完全で穏やかな
純粋な自覚、不変の至福
かつては遠い目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜が、歓喜が!

(*1)アヴァスター・・・状態
(*2)プージャー・・・神などを崇拝するヒンドゥー教の祈りの儀式。
(*3)オームカーラ・・・文字通りは、「オームの音節」
(*4)ラーマ・マヤ・・・「ラーマで満ちたもの」、「完全なラーマ」。
(*5)現実・・・英語のthe realityの訳。「真実」とも訳せますが、夢との比較で現実と訳しています。
(*6)アハムカーラ・・・「自我への同一化、愛着」。カーラは「創造されたもの」「すること」を意味する。
(*7)アヴダイ・アンマル・・・2010年1月号の「The Mountain Path」のp17に「Avudai Akka of Chengottai 」という記事があります。

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