2013年10月7日月曜日

ブラフマ・ジニャーナ、サンスカーラとの戦い、感情の征服

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

 読みやすいように対話形式するため、訳を多少変えています。(文:shiba)

45年3月31日 午後

 訪問客、ウッタル・プラデーシュ州のシヴァガル(?)のラージャ(*1)が、「私は私自身をバガヴァーンに委ねます。バガヴァーンは私にジニャーナを下さるべきです」と言ったようでした。バガヴァーンは1937年9月号の「Vision」のナームデーヴ(*2)が主の名の重要性を強調した文章に言及しました。そこでは、「私」、自我が委ねられた時のみに、主の名の意義が理解されると指摘されていました。
 私が講堂に入った時、上述のラージャと他の訪問客のために、どのようにして『アシュターヴァクラ・ギータ』が説かれるようになったのかという話が英語で詳しく話されていました。話を読み終わった後、バガヴァーンは言いました。

バガヴァーン:
 ブラフマ・ジニャーナ(*3)は、遠くのどこかにあり、行って得られる外側にある何かではないため、それを得るためにはとても長い時間がかかるや、とても短い時間で済むということは言えません。それはいつもあなたと共にあります。あなたはそれです!『アシュターバクラ・ギータ』の物語の意図するところは、「ブラフマ・ジニャーナを得るために必要な全てのことは、あなた自身を完全にグルへ委ねること、『私』および『私のもの』なる概念を放棄することである」と説くことです。それらが放棄される時、残るものが現実です。その時、ブラフマ・ジニャーナを得るためにさらにどれほどの時間がかかると言うことは不可能になります。一方の足を階段の1段目に置いた後、もう一方の足を2段目に置くのに要する時間と同じぐらいかかると言うのは間違いでしょう。自我が完全に放棄された瞬間、自らが輝きます。

(続いて、バガヴァーンは『ヨーガ・ヴァーシシュタ』から引用しました)
意識の虚空(チダーカーシャ)なる月を覆う「私」、「自我」なる雲が取り除かれないなら
「私」という感覚(アハンカーラ)をまるで知らないハートなるユリの花は満開にならない

 我々は長年のサンスカーラ(*4)と戦わなければなりません。それは全てなくなります。ただ、過去にサーダナをすでに行った人々の場合には、比較的すぐなくなり、他の人々の場合には遅くなります。

デーヴァラージャ・ムダリアール:
 サンスカーラは段階的になくなるのですか、それとも、ある日突然に消えるのですか。私がこれを尋ねるわけは、私はかなり長い間ここに留まっているにもかかわらず、私の中に段階的な変化を何も感じないからです。

バガヴァーン:
 太陽が昇る時、暗闇は段階的に消えますか、それとも、いっぺんに消えますか。

別の訪問客:
 どのようにして感情を征服するのですか。

バガヴァーン:
 感情が我々の外にある何かであるなら、武器と弾薬を手に取り、それを征服できます。それは我々の内側から出てきます。それが出てくる源を調べることによって、我々はそれが我々から出てこないことを理解し、それを征服するでしょう。世界とその中にある対象物こそが、我々の感情をかき立てます。しかし、世界とこれらの対象物は我々の心によってのみ創造されています。それらは我々の眠りの間に存在しません。

(*1)ラージャ・・・藩主、地方の領主
(*2)ナームデーヴ・・・ヒンドゥー教のヴァールカリー派に属する詩聖。1270年にマハラーシュトラで誕生。
(*3)ブラフマ・ジニャーナ・・・「ブラフマンを直接に知ること、全てをブラフマンであると知ること」など
(*4)サンスカーラ・・・心の過去の傾向、印象

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