2013年1月5日土曜日

M.アブドゥル・ワハブ(シュリー・バガヴァーンの級友)の思い出

◇『静かなる力(The Silent Power)』

「Mountain Path」と「The Call Divine」からの選集。

4.シュリー・マハルシの級友サーブ・ジャーン


セイン

 バガヴァーン・シュリー・ラマナは、聖なる山・アルナーチャラは世界の中心であり、山々の中で最も古いものであると何度も強調しました。彼はまた、それは自然のシュリー・チャクラであり、それぞれの角度から様々な見え方をすると言いました。ですから、それは形を持ち、かつ形を持たないシヴァ・リンガなのです。あらゆる方向から、それは、様々な荘厳とした姿勢で自身を表します。

 そして、同じように私もシュリー・マハルシを様々な角度から見ることを好み、そして彼の見え方の違いをいつも楽しんでいます!彼の教えや、台所での手伝いや、信奉者や無言の動物の要望さえも満たすというようなアーシュラムでの活動という点では、信奉者はバガヴァーンがタットワマ・シヴァルーパとしてある以上に、自分の父と母、そして神の化身としてあると知っています。級友の親しい友としての彼の偉大さがここでは描かれており、彼の真に愛情深い心を明らかにしています。

 (ティルチュリ出身の)ヴェンカタラーマン青年が、4・5・6学年にマドゥライのアメリカ系のミッション高校で学んでいるとき、彼はムスリムの少年と親しく交際しており、彼を親しい友として選んでいました。ヴェンカタラーマンはこのムスリムの青年をとても気に入っており、彼をサーブ・ジャーンと呼んでいました。彼の本当の名前は、M.アブドゥル・ワハブです。

 ワハブ氏は今は退職した警部であり、80歳近く、見聞きすることがうまくできません。彼は息子と共にネイヴェリに住んでいます。このことを聞いて、私はそこに彼に会いに行きました。彼はとても親切に私を迎えてくれ、彼の顔つきが安らかであることに驚きました。私は彼に学生時代のバガヴァーンについて何か話して下さいと頼みました。マハルシについての彼の話によって私は胸躍るような体験を得て、彼が後に偉大なシュリー・ラマナ・マハルシとして知られるヴェンカタラーマンと楽しんだ親密な友情を心の目で描くことができました。

 私が彼らの友情の深さを説明するように頼むと、ワハブ氏は彼の幸せな過去を回想し、「私たちは分かち難い友でした」と言い、喜びで胸を躍らせました。このムスリムは、ヴェンカタラーマン青年とのそのような恩恵を楽しんでいました。幸運にも彼と共に過ごした過去の幸せな日々についてワハブ氏は語り始めました。

 「ヴェンカタラーマンはとてもタミル語に習熟しており、クラスで一番でした。教師が教科書のある部分を参照したいと思った時、よくヴェンカタラーマンに引用するように頼み、ヴェンカタラーマンは驚くべき明確さでそれを行いました。彼は特にナンヌール・ソースラム(タミル語の文法の格言)に精通していました。タミル語のパンディット(学者)であるジョン・バラクリシュナンは彼をとても気に入っていました。タミル語についての彼の知識は本当に驚くべきもので、タミル語の文法の知識はとても正確でした。

 しかし、ヴェンカタラーマンは、その科目に熟達してはいなかったという意味で、英語はあまり得意でありませんでした。他の科目でも、彼は平均より上でした。しかし、一般的に、彼は教科書にあまり興味がありませんでした。彼は競技をするのがとても好きで、競技の中でもフットボールの名人でした。やりかたを教えると言いながら、彼はよく私に試合に参加するように勧めました。私たちは同じチームで一緒に試合を行い、私は特にヴェンカタラーマンと一緒にいました。その当時の常として、バラモンの家では、息子たちに競技に参加することを勧めていませんした。ヴェンカタラーマンの親戚も、彼が競技をするのを好んでいませんでした。

 昔、我々がフットボールをしているときに、ヴェンカタラーマンは対戦相手の攻撃に対して守っていて、右足にきつい打撃をうけました。右足はすぐに腫れあがりました。彼はおびえ、家にもどらねばなりませんでした。私は彼を病院まで運び、薬をつけて、彼の足を正常な状態にしました。彼はとても喜び、時を得た手助けに感謝しました。

 学生のときでさえ、彼はとても敬虔でした。毎週土曜日と日曜日に、ティルパランクンラムへ行き、スブラマニア・スワーミ寺院の周りを熱烈な宗教的な喜びを持って巡りました。彼は何度も私を連れていき、「神の創造は似ていて、創造のなかに違いはありません。神は同一であり、神々の見かけの違いは人によってつくられています」と言い、私に寺院の周りを回らせました。ヴェンカタラーマンと共にいると、私はモスクとスブラマニア・スワーミ寺院の間に違いを全く感じませんでした。

 彼のこの教えは、私の中に宗教への秘密の道についてのより良い理解を実際に植え付け、その時以来、ヒンドゥーの神とその他の神の間に違いをまったく感じませんでした。それは全く可能なことで、事実、当時ヴェンカタラーマンにより私に植え付けられたそのような普遍的な見方が理由で、晩年に私がカンチープラムのシュリー・ヴァラダラージャ(*1)・ペルマール(*2)の熱心な信奉者となれたのは確かなことです。実際に、彼は私を彼の神聖な歓喜の中に包みました。私はヴァラダラージャ・ペルマールを夢で見て、それが私にとってとても助けとなっていることが分かりました。」

 どのように(助けとなっているのか)と私が彼に尋ねた時、彼は(次のように)言いました。「カンチープラムの道を行進している間、ペルマール神を運ぶために肩をかすことによって、私は12年間、シュリー・ヴァラダラージャ・ペルマールのガルダ・セーヴァー(*3)に積極的に参加することができました。私はそれを今日でさえもっとも偉大な栄誉であり、幸運とみなしています。私がムスリムであるため、私が神を担うのに異議を唱えるヴァイシュナヴィテー(*4)もいたので、問題が起こったこともありました。それは、後に平和的に解決されました。ヴァラダラージャ・ペルマールへのこの12年間の奉仕により、私は彼によりいっそう親密に寄り添うようになりました。

 昔、私がクッパムで勤務していた時、私が大好きだった妻が流産をしたという電報を受け取り、彼女が死ぬのではないかと非常に心配しました。その夜にシュリー・ヴァラダラージャ・ペルマールが夢に現われ、妻は大丈夫で、心配する必要はないと請け負いました。私がティルッパットゥールに戻った時、彼女は正常な状態でした。彼女の回復はシュリー・ペルマールの恩寵でした。」

 次に、ワハブ氏はヴェンカタラーマンについて話しました。『突然、ヴェンカタラーマンは姿を消し、彼が家出について私に告げさえしなかったのは私にとって衝撃でした。彼がいなくなったことは、彼の母親をひどく悲しませました。彼の家と母親について話す時、アラガンマルお母さんが親切心と愛情をもって私をよく迎えてくれたことを述べずにはいられません。

 土曜日と日曜日に、彼は母親と親類縁者と共に過ごすためにティルチュリに行くことがありました。私も彼に会いにそこに行きました。アラガンマルお母さんは、「あなたの仲の良いムスリムの友達が来ましたよ」と言って、ヴェンカタラーマンに私が来たことを告げました。彼女は高潔さに輝く素晴らしい顔をしていました。毎度、彼女はとても温かく迎えてくれ、家でこしえた食べ物を何でも私に出してくれました。偶然に私がある週末に姿をみせなかったなら、私の不在を尋ね、「これをあなたのムスリムの友達にあげなさい」と言い、ヴェンカタラーマンに食べ物を渡しました。私がムスリムだったのに(示してくれた)、アラガンマルの母親としての愛情と私への親切心を決して忘れることはできません。』(当時、ムスリムはバラモン・カーストから不可触民としてみなされていました。彼らは嫌われ、軽蔑をもって扱われていました。)

 私はサーブ・ジャーンに、「いつシュリー・マハルシの所在を知ったのですか」と尋ねました。彼は言いました。『私は警察に入り、1903年にウッタラメルルの薬局の一つで、見た目は全く変わっていたのですが、ヴェンカタラーマンの肖像写真を見て驚きました。その店の人がどのようにして私の級友の写真を持つようになったのか非常に知りたくなりました。そして、これはティルヴァンナーマライに住んでいる「ブラフマナ・スワーミ」で、そのスワーミはその時、モウナム(沈黙)の状態にいると告げられました。

 私はヴェンカタラーマンに会いたいと熱望し、ついに数ヶ月間の熱心な努力ののち、若かりし頃の親愛なる友、シュリー・マハルシの住まいであるシュリー・ラマナーシュラマムに行くことができました。私は中に入り、バガヴァーンに牛乳を差し上げていた牛飼いの女性にじっと見られました。私は級友の「サーブ・ジャーン」であると自己紹介し(ですが、彼の表情は、彼がすぐに私であると分かり、自己紹介は全く必要でなかったことを明確に示していました)、彼は話しませんでしたが、私を喜んで迎えてくれました。晴れやかな顔つきで、彼はただうなずきました。級友にスワーミとして会えて私は身震いしました。なぜなら、聖者性の表れのため、彼はより一層美しく、まばゆく輝いていたからです。

 ティルッパットゥールで警部であった時、再びそこに行きました。父親が亡くなったので、私は当時とても悲しんでいました。バガヴァーンは彼の母親のお墓を私に見せ、そのことは私を慰めました。バガヴァーンの行為から、体に関する限り、死は不可避であり、誰もかつて生まれてないし、死んでいないということを理解しました。彼はとても親切で、食べるものをくれ、数日滞在するように誘いましたが、仕事があったので、できませんでした。その後、何度か彼に会いに行き、すべての機会に、彼は私に特別な気遣いを示し、その機会にいた誰にでも、愛情深く、思いやりをもって私を紹介しました。食堂で食事をとる時、彼はよく私をそばに座らせましたが、後でそれは彼には全く珍しいことであると知るようになりました。

  突然の変化が私に起こりました。私はヴェンカタラーマンの友人から、バガヴァーンの信奉者に変わりました。シュリー・マハルシによりもたらされたこの内面の変化は、彼が私に注いだ最大の恩恵です。かつて、彼はその偉大さを夢を通して示しました。その中で彼は私の妻が亡くなるというお告げを示し、不思議な方法で私を慰め、その衝撃的な出来事に私を備えさせました。それはすぐに起こり、予言されたように私の愛する妻は亡くなりました。シュリー・マハルシの恩寵により、それは私にあまり影響を与えませんでした。この超然とした態度自体が、バガヴァーンの恩寵です。

 1950年4月14日、彼のブラフマ・ニルヴァーナという忘れられない日、遠く離れた場所で仕事についていたので、ティルヴァンナーマライに行くことは私にとって全く不可能であったのですが、偶然にも私はアーシュラムを訪れる機会を得ました。日中、旅の間にホテルに行き、食事をとる時間がなく、食事をとることができませんでした。

 その夜に死すべき体を離れた私の友人であり、グルに私は敬意を払いましたが、彼の存在は依然として彼の住まいに行きわたっていました。私は深く悲しんでいました。私がとても疲労困憊しているように見え、夜遅くだったので、その時、誰かが食事をとるように勧めました。私は、「私の親しい友であり、崇敬されるグルへの敬意を表わす行為として、一日中、断食します」と言い、きっぱりと断りました。』
 私はワハブ氏に感謝を述べ、いち級友であるに留まらず、さらに進み、ヴェンカタラーマンをバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ、マハー・グルとして理解したバガヴァーンの級友として、大変に敬意を持って彼にいとまごいをしました(シュリー・ワハブは、この記事が書かれた後に、亡くなりました)。

(*1)ヴァラダラージャ・・・タミル地方のカンチープラムのヴィシュヌ寺院の神。「恩恵を与える者の中で最高位の者」を意味する。
(*2)ぺルマール・・・タミル語。インドのタミル地方で有名な神。ヴィシュヌ神の別名。
(*3)ガルダ・セーヴァー・・・タミルのタイの月(1月から2月)の新月の日に祝われる祭典。ガルダは、ヴィシュヌの乗り物である神鳥。セーヴァーは「奉仕」を意味する。
(*4)ヴァイシュナヴィテー・・・ヒンドゥー教の主要学派の一つヴィシュヌ派を信仰する人。

0 件のコメント:

コメントを投稿