2013年1月20日日曜日

一切の疑問の克服するには、モウナ・ディークシャーの意義

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

45年10月18日 朝

 パンジャーブからの訪問者がバガヴァーンに、「瞑想する時、私は時にある種の至福を感じます。そのような場合、自分自身に『この至福を経験しているのは誰か』と尋ねるべきでしょうか」と尋ねました。

バガヴァーン:
 経験されるものが自らの真の至福であるならば、つまり、心が自らに本当に溶け込んでいるならば、そのような疑問はまるで起こりません。質問自体が、真の至福に到達されていなかったことを示しています。

 疑う者と彼の源が見つけられている時にのみ、一切の疑問が止みます。疑問を取り除くことは役に立ちません。一つの疑問を晴らしても、別の疑問が起こり、疑問に終わりはありません。しかし、疑う者の源を探し求めることによって、疑う者が実際には存在しないということが見出されるならば、その時、一切の疑問は止みます。

訪問者:
 時々、私は内部で起こる音を聞きます。そのようなことが起こる時、何をすべきでしょうか。

バガヴァーン:
 何が起こっても、現実に到達するまで、「この音を誰が聞くのか」尋ね、自らの探求を続けなさい。

 最近、アクシャラジニャによる「Sri Ramana, the Sage of Arunagiri」の第2版が出版されました。あちこち拾い読みしていると、バガヴァーンが彼の弟子を様々な方法で-初心者は「見ること」によって、中ほどの者は「思い」によって、進んだ者は「触れること」によって-祝福するという文章に出くわしました。

 かつて、私がタミル語の「カイヴァルヤム」(*1)を読んでいた時、バガヴァーンに、「多くの本では、グルが弟子の頭を手や足で触れることによって弟子を祝福する、もしくは、ディークシャー(*2)を与えることが書かれています。それでは、いったいどうしてバガヴァーンはそのような事をしないのでしょうか」と尋ねました。バガヴァーンは私に、「本でディークシャーの三つの方法、すなわち『見る、触れる、思い』によるディークシャーが言及されているのは本当です。しかし、実際は、思いによるディークシャーが最良です」と言いました。

 それで今日、私はバガヴァーンにアクシャラジニャの本の中の上記の文章のついて尋ねて、「彼もまたバガヴァーンをよく知っています。彼がそのように言うには何か理由があるはずです」と言いました。バガヴァーンは、「わかりません」と言い、「ディークシャーを与えようという意図はなく、偶然か、もしくは、その他の理由で触れたのかもしれません」と言い足しました。

 これに関連して、(その出来事が起こった時にいた)G.V.スッバラーマヤ氏を証人として書き留められるでしょうが、数年前、北インド出身の年をとった際立った容貌をした尊敬すべき行者が、アーシュラムにひと月ほど滞在していていました。彼は「バガヴァッド・ギーター」すべてを暗誦したものでした。彼の出発の日に、バガヴァーンは以下のような状況で彼に触れました。

 朝の散策の後、バガヴァーンは講堂にもどり、寝椅子の上に座りました。彼の両足がまだ地面に触れている間に、上記の行者はバガヴァーンの足もとにひれ伏し、彼の頭はほとんどバガヴァーンの両足に触れんばかりでした。彼は触れるディークシャーによって彼を祝福してくださるようバガヴァーンに懇願し、バガヴァーンがそのようにするまで立ち上がらないと加えて言いました。そこで、バガヴァーンは快く片方の手をその老年の男性の頭におき、もう片方の手で彼を起こしました。

 この全ての会話が行われている間、シュリニヴァーサ・ラオ医師が、リューマチ性の病気を患っていたバガヴァーンの両足をマッサージしていました。バガヴァーンはユーモラスに、「今、触れることによってドクターが私にディークシャーを与えています」と発言しました。15日ほど前、その医師がバガヴァーンの両足をマッサージしている時に、「あなたは十分にしました。座りに行ってかまいません。私は自分自身をマッサージして、プンニャを得ましょう。どうしてあなたばかりが全てのプンニャを得るべきなのですか」と言い、彼自身をマッサージし始めました(プンニャは、たとえば師への奉仕によって得られる聖なる福徳です)。

(*1)カイヴァルヤム・・・・おそらく「カイヴァルヤ・ナヴァニータム」のこと。
(*2)ディークシャー・・・「清めること、手ほどき」。サンスクリット語の語根「 (与えること) 」と 「kṣi (破壊すること)」か、もしくは動詞の語根「dīkṣ(捧げる、清める)」に由来する。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』

Talk 433.(抜粋)

信奉者:
 バガヴァーンはディークシャーを与えますか。

マハルシ:
 モウナ(沈黙)は、最も力づよい最良のディークシャーです。それはシュリー・ダクシナームールティによって実践されました。触れる、見るなどは低い序列のものです。沈黙(モウナ・ディークシャー)は全ての者の心を変えます。

Talk 518.(抜粋)

マハルシ:
 恩寵の最高の形は、沈黙(モウナ)です。それは最高のウパデーシャでもあります。

信奉者:
 ヴィヴェーカーナンダもまた、沈黙が祈りの最も大きな声の形であると言っています。

マハルシ:
 そうです。探求者の(心の)沈黙のためには、グルの沈黙が最も大きな声のウパデーシャです。それは最高の形での恩寵でもあります。他の全てのディークシャー、例えば、スパルシャ(触れる)、チャクシュ(見る)はモウナに起源を持ちます。それゆえ、それらは二次的なものです。モウナは第一(根本)の形です。グルが沈黙しているなら、探求者の心は自然と清められます。

信奉者:
 人が世俗的な病によって苦しんでいる時、人が神やグルに祈るのは適切なことですか。

マハルシ:
 疑う余地なく(そうです)。

Talk 519.(抜粋)

マハルシ:
  ダクシナームールティは、弟子が彼に近づいた時、沈黙を守りました。それは清めの最高の形です。それは他の形を包含しています。他のディークシャーには主体‐対象の関係性が確立されていなければいけません。はじめに主体が出てきて、次に対象が出ます。この二つがそこになければ、どうして他方を見たり、触れたりする一方が存在できますか。モウナ・ディークシャーは最も完全なものです。それは見る、触れる、教えるを含んでいます。それは人をあらゆる方法で清め、現実に打ち立てます。

0 件のコメント:

コメントを投稿