2015年9月13日日曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第6章 自らの実現

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p22-25

マハルシの福音

第1巻 第6章 自らの実現

信奉者:
 どうすれば私は自らの実現を達成することができますか。

マハルシ:
 実現は新たに得られなければならないものではありません。それはすでにそこにあります。必要である全ては、「私は実現していない」という思いを取り除くことです。

 静寂や安らぎが、実現です。自らがいないときは片時もありません。疑いや非‐実現の感覚がある限り、自分自身からそれらの思いを取り除こうという試みが行われなければなりません。それらは自ら自らでないものとの同一視のためです。自らでないものが消え去るとき、自らのみが残ります。場所を空けるためには、邪魔なものが取り除かれればそれで十分です。どこかから場所が持ち込まれるわけではありません。

信奉者:
 ヴァーサナー・クシャヤなしには実現は可能ではないため、ヴァーサナーが効果的に破壊される状態を私はどのように実現すればいいのでしょうか。

マハルシ
 今、その状態(State、境地)にあなたはいます!

信奉者:
 それは自らにつかまることにより、ヴァーサナーが生じるその時に破壊されなければならないということですか。

マハルシ:
 あなたがあるがままにいるなら、それらは自ずから破壊されるでしょう。

信奉者:
 どうすれば私は自らに達するのでしょうか。

マハルシ:
 自らに達することはできません。仮に自らが達されるなら、自らが今ここになく、いまだ得られていないということを意味するでしょう。新たに得られるものは、失われもするでしょう。そのため、それは永続的ではなくなるでしょう。永続的でないものは、求め励むに値しません。そのため、自らは達されないと私は言います。あなた自らです。あなたはすでにそれなのです。

 事の真相は、あなたの至福に満ちた状態にあなたが無自覚であるということです。無知が起こり、至福である純粋な自らを覆い隠します。

 試みは、間違った知識に過ぎない、この無知の覆いを取り除くためだけに向けられます。間違った知識とは、自らと体や心などとの誤った同一視です。この誤った同一視は去らなければならず、その後、自らのみが残ります。

 ですから、実現は全ての人にとってあります。志高き人々の間で実現に差はありません。自分が実現できるのかどうかという、まさにその疑い、そして、「私は実現していない」という概念が、それ自体、障害物です。それらの障害物からも自由になりなさい。

信奉者:
 サマーディは何の役に立ちますか。その時、思いは存続しますか。

マハルシ:
 サマーディだけが真理を明らかにできます。思いは現実を覆い隠し、そのため、サマーディ以外の状態で、それはそれとして実現されていません。

 サマーディでは、「私はいる(I AM)」という意識のみがあり、思いはありません。「私はいる」という体験は、静かにいることです。

信奉者:
 ここで私が得たサマーディや静寂の体験をどうすれば私は再び経験できますか。

マハルシ:
 あなたの現在の体験は、あなたがいるところの雰囲気の影響によるものです。この雰囲気の外で、あなたはそれを体験できますか。その体験は断続的です。それが永続的になるまで、修練が必要です。

信奉者:
 人は時に、その中心が普段の自分外側にあり、全てを包含しているように思える、ある種の意識の鮮明な閃きを経験します。哲学的概念に関わることなく、その稀な閃きを得ること保つこと拡大することを目指して努力するために、どのようにバガヴァーンは私に助言されるのでしょうか。そのような体験の中でのアバヤーサは、隠遁を必要としますか。

マハルシ:
 外側に!誰にとって内や外がありますか。それらは、主体と対象がある限りのみ、存在できます。再び、誰にとってその2つがありますか。吟味すれば、あなたはそれらが主体のみに溶け込むことを発見するでしょう。誰が主体なのか確かめなさい。この探求は、主体を超える純粋な意識にあなたを導きます。

 普段の自分とは心です。この心は制限を伴っています。しかし、純粋な意識は制限を超えてあり、上に概説された吟味によって達されます。

 得ること自らは常にそこにあります。あなたはただ自らの啓示を妨げる覆いを取り除きさえすればいいのです。

 保つこと-あなたがいったん自らを実現するなら、それはあなたの直接的な即座の体験になります。それは決して失われません。

 拡大すること自らが拡大することはできません。というのも、収縮や拡張なく、それは変わらずにいるからです。

 隠遁自らに住まうことが独居です。なぜなら、自らに相容れないものはありません。隠遁は、ある場所や状態から別のものへとなるに違いありません。自らと離れて、一方も他方も存在しません。全て自らであるため、隠遁は不可能で、思いもよらないことです。

 アバヤーサは、本来の安らぎへの妨げの防止でしかありません。あなたがアバヤーサをしてもしなくても、あなたはいつもあなたの自然の状態にいます・・・ 質問も疑いもなく、あるがままでいることが、あなたの自然な状態です。

信奉者:
 サマーディを実現すると同時に、人はシッディも獲得しますか。

マハルシ:
 シッディを見せるためには、それらを認識する他者がいければなりません。それは、それらを見せる者の中にジニャーナがないことを意味します。ですから、シッディは一考の価値もありません。ジニャーナのみが目指され、得られなければいけません。

信奉者:
 私の実現は他者を助けますか。

マハルシ:
 ええ、しかもそれは、あなたがおよそ他者になしうる最高の助けです。偉大な真理を発見した人々は、自らの静かな深みで、そのようにしました。しかし、実際、助けられるべき「他者」はいません。というのも、金細工師が、金で作られた様々な宝飾品の中の金の価値をはかる間、金のみ見るように、自らを)実現した存在自らのみを見るからです。あなたがあなた自身を体と同一視するとき、名と形がそこにあります。しかし、あなたが体の意識を超越するとき、「他者」もまた消え去ります。自らの)実現者は、世界を彼自身と異なっていると見なしません。

信奉者:
 聖者らが他者と交わるなら、より良いのではないのでしょうか。

マハルシ:
 交わるべき「他者」はいません。自らが唯一の現実です。

信奉者:
 私は苦しむ世界を助けようとすべきではないのですか。

マハルシ:
 あなたを創造した力が、世界もまた創造しました。それがあなたの面倒をみれるなら、それは同様に世界の面倒もまたみれます・・・ 神が世界を創造したのなら、その世話をするのはの仕事であり、あなたの(仕事)ではありません。

信奉者:
 愛国者でいることは我々の義務ではありませんか。

マハルシ:
 あなたの義務はいること(to be)であり、あれやこれやでいることではありません。「私はいる、が私である(I AM THAT I AM)は、全ての真理を要約しています。その方法は「静かにいる(be still)」に要約されます。

 では、静寂とはどういう意味ですか。それは「あなた自身を滅ぼす」という意味です。なぜなら、全ての名と形が問題の原因だからです。「私‐私」が自らです。「私はこれである」が自我です。「私」が「私」のみとして保たれるとき、それは自らです。それが脇道にそれ、「私はあれこれである、私はだれそれである」と言うとき、それは自我です。

信奉者:
 神とは、では、誰ですか。

マハルシ:
 自らが神です。「私はいる」が神です。神が自らと離れているなら、自らのない神でなければならず、馬鹿げています。自らを実現するために必要とされる全ては、静かにいることです。それより何が簡単になれますか。それゆえ、アートマ・ヴィドヤーは最も達成し易いのです。

3 件のコメント:

  1. ありがとうございます。

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  2. 同じ対話の中で、自らは新たに実現するようなものではないと語りながら同時に、自らの実現が他者になしうる最高の助けであるとも語っているラマナ・マハルシの言葉は、たんなる詭弁のような印象を受けます。

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  3. なるほど。そういう印象を受ける人もいるんですね。

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