2013年3月22日金曜日

マハー・ニルヴァーナ(偉大なる寂滅)① - シャンカル・ラオ医師の記録

◇『沈黙の力(The Silent Power)』、p135~141

シュリー・バガヴァーンへの治療-1つの記録

シャンカル・ラオ医師
シャンカル・ラオ医師は引退した地方医療官であり、ほとんど病気の初めからシュリー・マハルシに付き添っていました。この文章の中で、彼はマハルシの病、そして、彼がそれに耐える様子の生き生きとした詳細な描写を記しています。
  バガヴァーンに医師として1年以上仕えたことは、非凡な栄誉であり、非凡な経験でした。それは最高の教育であり、比類ない特色をもつ訓練でした。それにより、私はシュリー・マハルシの超人的で神のような人格のみならず、人間的な人格を生き生きとかいま見ました。

 丸1年の間、私は病がシュリー・バガヴァーンの肉体の力と生命力をむしばむことに残酷に成功するのを見ていました。病は彼の無執着と平静に影響するのに失敗し、私は痛みと苦しみを伴うこの病気がどうにか不名誉な敗北にまみえるのを初めて目撃しました。これは、ついにはマハルシが死すべき鞘(覆い)を振い落とすことになる以下の病の歴史の記録に裏づけられます。

 1948年12月の2週目に、私はシュリー・ラマナーシュラマムにはじめてやってきました。その時、シュリー・バガヴァーンに乾燥エンドウ豆ぐらいの大きさの小さな瘤(こぶ)がひじの裏(*1)の皮膚の下にできていました。私がそれについて彼に尋ねると、彼は3か月ほど前に転んだことによるのかもしれないと言いました。圧迫により、それはよく痛みました。1か月の内に、それは小さなビー玉の大きさへ成長しました。シュリー・バガヴァーンは、ひじを表面が固いものの上に置く時にいつも痛みを感じていたので、それを取り除くことを勧めました。1949年2月9日、それは取り除かれました。1週間の内に、傷口は完治しました。

 3月の1週目に、それが成長していることが再び分かりました。3月の半ばごろ、マドラスのラガヴァチャリ医師が助手と一緒に来て、かなりの量の周辺組織とそれを覆う皮膚と共に、それを完全に取り除きました。顕微鏡検査で、それが肉腫であると判明しました。

 肉腫とは若い人々に一般的に起こる肉(筋肉と脂肪の組織)の悪性腫瘍で、他方、年配の人は皮膚や粘膜からの腫瘍である癌になります。これらの悪性腫瘍は、単なる腫瘍のように覆いや皮膜の中にしまわれていません。腫瘍の周りの組織の中のどこかの大変小さな細胞でさえ別の腫瘍へと成長し始めることがあります。細胞のいくつかが血管を通して体の他の部分に運ばれ、類似した第二の腫瘍を作ることがあります。

 2回目の手術の後、傷口は治らず、数日後に新しい腫瘍が現れ、それはおびただしく出血しはじめました。医師と放射線医がマドラスから来て、一時的に緩和するためにラジウム(療法)が行われました。彼らは腫瘍から数インチ上で手を切断することだけが病気を治しうると助言しました。シュリー・バガヴァーンの信奉者間の意見の総意は、切断に反対でした。シュリー・バガヴァーンもまた、その必要はないと言いました。切断という考えは諦められました。

 ラジウム療法の結果、腫瘍の成長は少しおさまりましたが、1949年の6月に再び成長し始めました。アーユルヴェーダの治療を試みることを希望する信奉者らがいて、地方のアーユルヴェーダの医師が治療を始めました。シュリー・バガヴァーンの健康は衰え、敗血症が起こり、腫瘍は非常に急速に成長し続けました。

 マドラスからの外科医らが再び来るように要請されました。彼らは唯一の治療として手術を勧め、周辺組織の白色の範囲と共に腫瘍が透熱性のメスで取り除かれました。その後、ラジウム(療法)が行われました。これは8月14日のことでした。

 3か月のあいだ腫瘍の成長は現れず、傷口の皮がむけた表面から採取された小片さえ陰性であると報告されたので、その結果はとても好ましいように見えました。しかしながら、1949年12月のはじめ、小さな瘤がもとの腫瘍の成長の痕から数インチはなれた腕の中央に現れつつある疑いが生じました。そこで、再びマドラスから医師たちが来て、それを第2の腫瘍で、それも非常に小さなものであると診断し、彼らは簡単に取り除くつもりでした。

 12月19日、腫瘍は手術されましたが、腫瘍を取り除くために深部組織にメスがいれられた時、腫瘍が筋肉の深部まで広がっていることが発見されました。よりいっそう大きな手術が必要となり、それにもかかわらず、外科医は再発の可能性を除外できないと感じました。

 外科医たちが治癒の望みをあきらめたので、ホメオパシーが試みられました。2月の中頃までに、手術創の上端で腫瘍は再び成長をはじめ、シュリー・バガヴァーンを治療していたホメオパシーの治療者は再発を防げなかったので、マラバルからアーユルヴェーダの医師が呼ばれ、治療を開始しました。これもうまくいかなかったので、信奉者の一人によって、カルカッタからカヴィラジ・ジョゲンドラナス・シャーストリがシュリー・バガヴァーンを治療するために招かれました。この期間中ずっと、シュリー・バガヴァーンの全身の健康状態は衰え続け、腫瘍の成長は急速に増しました。

 4月2日ごろまでに、私は終わりが近いと感じました。4月9日の日曜日の夜に、脈がとても弱くなり、心臓の機能が徐々に低下することは極度の疲労をもたらしまた。その日まで隣接した浴室に歩いて行けたシュリー・バガヴァーンはそのようにできなくなり、ベッドを離れられなくなりました。

 2月からシュリー・バガヴァーンの血圧は低下しはじめました。死の2週間前、血圧は88/48で、最低では66/36に達しました。予期された最後は4月14日、午後8時47分に訪れました。

 肉体に対するシュリー・バガヴァーンの態度は、完全な無執着でした。病気と痛みは彼の心に何の影響も残しませんでした。彼が病を治療されるにまかせていたのならば、彼が苦痛の軽減を求めたというより、信奉者が望んだからでした。彼の態度はいつも、肉体の病に対する至高の無関心でした。

 そのように、彼は信奉者によって決定されたどんな治療も疑わずに受け入れる理想的な患者でした。治療におけるどのような変更でも彼がそれを許可するときはいつでも、彼の唯一の関心は特定の治療が試みられることについて信奉者の間で合意があるべきであるということだけでした。彼個人としては、関心がありませんでした。

 彼のそばにいた全ての人にとって、時には非常に耐えがたい性質であった痛みを、苦しんでいる様子を表情にさえあらわさずに彼が耐える様子は驚くべきことでした。手(足)の下方に差すような痛みがあった病の後期のある時、彼のダルシャンを求めてきた紳士がお辞儀をし、ティルヴァンナーマライを去ることを告げました。シュリー・バガヴァーンは、その時どこも悪い所がないかのように、彼にいつも通りの恵み深いまなざしと微笑みを向けました。その紳士が去って初めて、シュリー・バガヴァーンは痛みがひどいことを認め、自分自身にその手当てがなされることを許しました。

 病の後期における腫瘍は大変な大きさに成長していたので、そのような光景になれている医療従事者でさえ、それを見た時ショックを受けました。腫瘍が手当てされる時、シュリー・バガヴァーンはそれを見て、冗談をよく言ったものでした。彼は医師たちが包帯の位置を調整するのを手伝いさえしました。

 腫瘍まわりの皮膚が蒸留アルコール(rectified spirit)で消毒されていたある時に、いくらかが腕の他の部分にかかり、体にも落ちました。シュリー・バガヴァーンは冗談っぽく自分は魂の沐浴(spirit bath)をしていると言い、シュリー・シャンカラーチャーリヤによる「アートマ・ボーダ」の最後の詩節(*2)を引用しました。それは単なる冗談ではなく、その中に深遠な聖なる教えも含まれていました。

 ある晩、腫瘍が手当てされていた時、腫瘍から大量の出血があり、2・3人のバクタは感情を隠すことができませんでした。彼は彼らの方を見て、「どこに私が行くのでしょうか。それに、どこに私が行けるのですか」と言いました。彼が強調して「私」という時はいつでも、彼はいつもアートマンを意味していました。

 しばらく前、腫瘍を治療をしていた時、シュリー・バガヴァーンが日光浴をして、数分のあいだ腫瘍を日光に晒してはどうかという提案がなされました。ハエを防ぐために、香料がかまどに入れられ、彼が座る椅子の真下に置かれました。シュリー・バガヴァーンは冗談っぽく、我々は腫瘍の前で香料を焚き(ドーパム)、光を振る(ディーパム)ことによって、立ち去ってもらうように腫瘍に敬意を表していると言いました。

 ある日の午後、私の友人の一人がシュリー・バガヴァーンの写真を撮りました。夜に私たちは連れだって行き、私が傷の手当てをしている時、シュリー・バガヴァーンは写真のことに触れ、例として写真撮影の科学を使いながら深遠な聖なる講話をしました。シュリー・バガヴァーン曰く、「写真を撮るとき、暗闇で銀塩がフィルムにかぶせられ、そしてカメラの中でフィルムが光にさらされた時、外の光によって引き起こされた痕跡が写ります。フィルムがカメラに入れられる前に光に晒されるならば、フィルムの上には何の痕跡も写りません。我々のジーヴァについても同じです。それがいまだ闇の中にいる時は、漏れ入る小さな光により、その上に痕跡をつけることができます。しかし、知の光がすでにそれに押し寄せている時どのような外の対象の痕跡も得られません」。よく似たやり方で、彼はよく医療の付添人(主治医ら)を、深遠な聖なる教育がちりばめられた冗談で楽しませました。

 病気の期間中ずっと、彼は主治医らがどのような医療の体系に属していても、彼らに恥ずかしい思いをさせたくないと望んでおり、それは結果として凌ぐことのできない完璧な医者同士の間の礼儀の決まりとなりました。彼がアーユルヴェーダやホメオパシーのような特定の医学体系の治療を受けている時に、誰かが彼が被っている強い痛みの治療を提案したなら、いつも彼は付き添っていた医者にその人を紹介し、その人にその医者の同意を得るように求めました。

 ある時、彼を手術した外科医らが切断を除いて何もシュリー・バガヴァーンを治せないと打ち明け、古参のある信奉者が別の医学体系の高名な医者を連れてきました。この紳士はシュリー・バガヴァーンに会い、話をしました。シュリー・バガヴァーンはいつも通りの恵み深い微笑みで彼を迎え、この新しい医者はシュリー・バガヴァーンが彼の治療を望んでいると思いました。それはシュリー・バガヴァーンに特徴的なことで、信奉者の多くに目撃されたことなのですが、各々の人が彼のところへ行くと、その人は師が彼のみに恩寵を注ぎ、信奉者の中で最も彼が愛されているという感覚をもって戻りました!私はこのことを知っていたので、この医者をシュリー・バガヴァーンのもとに連れてゆき、彼に治療のための同意を得るように求めました。シュリー・バガヴァーンはこのことに微笑んで、「今、私を治療しているこれこれという医者を知っていますか。彼と話をしましたか。彼は何と言いましたか」と言いました。その紳士は途方に暮れ、去らなければなりませんでした。 
 
 バガヴァーンを目にし、彼の日常の会話に耳を傾けることさえ、彼の近くにいる人にとっては教育でした。宗教や哲学に関する本を読む必要はありませんでした。彼の全ての哲学と世々の哲学は、バガヴァーンの人生の中にありました。なぜなら、彼の人生が最高の哲学の顕れだったからです。彼は講義しませんでした。彼は外の博学な学者の啓発のために本を記さず、完全な人生を送ることにより、彼に触れにやって来た人々にどの本が与えられるよりも優れた教育を与えました。現代のもっとも偉大な聖なる人物が去ると共に、世界は生きている教師、最高の意味におけるグルを失いました。

(*1)ひじの裏・・・医学的には「ひじの表」が手のひらの側で、「ひじの裏」が手の甲の側のようです。
(*2)最後の詩節・・・68詩節:「今ここに、あらゆる場所で得ることができる、透明で、温かく、常に清涼なアートマンという水に沐浴する彼は、特別な中心地や時節のなかに探される必要はない。そのような人は行為なく留まっている。彼はすべてを知るものである。彼はすべてに行き渡っており、常に不死である。」

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